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よくある質問
    中世以前の杉戸
     古代から人々が集落を形成し、ゆっくりと大きくなっていきます

    復元された古代住居
    (泉小学校内)

    復元された古代住居

     杉戸の地に人の営みが始まったのは、いつ頃なのでしょうか。これまでに発掘された遺跡などから、東部地域に広がる下総台地での発見が最も古く、この地域から約23,000年前の旧石器時代の石器が出土しています。このことから、すでに人々が生活していたことが、うかがい知れます。
     縄文時代に入ると気候が安定し、木津内や鷲巣・木野川で貝塚が形成されたのを見ると、人々もほぼ一定の地域で暮らすようになりました。弥生時代に入って大陸から稲作が伝わると、定住生活が始まって、やがて集落が形成されていきます。

     


     杉戸にも地方豪族が出現します。豪族たちは、自分の力を誇示するために古墳をつくり、そこに鏡や剣、玉などの副葬品を納めました。
     杉戸町には、目沼古墳群や木野川古墳群があり、その中の一つ目沼10号墳は町指定文化財となっています。10号墳の墳頂にはかつて千間社が所在していたことから「浅間塚古墳」と呼ばれています。
     また、目沼9号墳から発掘された鈴杏葉(馬の飾り)は、県内ではさきたま古墳群に次いで2例目であり、県の文化財(考古資料)に指定されています。
     目沼浅間塚古墳

    目沼浅間塚古墳


     


     (鈴杏葉)

    目沼9号墳出土品




     目沼9号墳出土品
     
     律令の時代には、国郷里という行政単位となりました。現在の杉戸町の地域は、下総国の葛飾郡に属していたようです。


     



      どじょう施餓鬼

     鎌倉時代には、武士が大きな力を持ち始め、その領地となる荘園も各地に生まれました。杉戸町域の全てが、下河辺氏が開発したといわれる下河辺荘に含まれていたようです。
    下河辺荘は、利根川や渡良瀬川などの河川交通も盛んであったようです。そのため、中世を通じて権力を握ったものたちが重要視していた荘園の一つでした。
     また、杉戸町域には、鎌倉街道も通っていました。いうまでもなく、鎌倉街道というのは、「いざ鎌倉」における重要なメインストリートです。
    そう考えますと、水陸交通の重要な地域がこの付近であったということでしょうか。









    (永福寺山門)

    更新日:2013年05月14日

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