Multilingual
背景色
文字サイズ
よくある質問
    大島有隣と恭倹舎
    大島有隣と恭倹舎
    心学者として名を残した大島有隣。


    【大島有隣肖像】
    大島有隣画像
     心学者として名を残した大島有隣(義展)は、宝暦5年に大島村(現在の杉戸町大島地区)に生まれました。大島家は旗本三宅氏の名主であり、三宅氏の用人も勤めました。
     心学とは、江戸時代の中期に京都の石田梅岩が起こした新しい学問で、石門心学ともいわれます。心学は、神道・仏教・儒教の教えを日常生活に合わせて説いた新しい日本の倫理のようなもので、武士階層や商人だけでなく、一般庶民を対象として広まっていきました。関東地方では、中沢道二によって普及されています。
     有隣は、安永8年に江戸の伊勢屋孫兵衛が大島村を訪れて心学を説くと、その影響を受けて中沢道二と会い、江戸の参前舎で心学の修行に励みました。


    【関口保宣肖像】
    関口保宣画像
     大島有隣とともに心学の普及を努めた関口保宣も大島村の出身で、奇しくも有隣と同じ年に生まれ、同時に心学の道にはいりました。幕府の役人である伊奈忠尊に招かれるなど、心学の普及にあたっています。
     文政2年に江戸での教育活動を終えた保宣は、郷里の大島村に戻り、恭使舎で心学の指導に力をそそぎ、天保元年に78歳でその生涯を終えました。



    【恭倹舎】
    恭倹舎
     天明5年に大島村に戻った有隣と関口保宣は、名主藤城吉右衛門との3人で恭倹舎(心学普及のための施設)を設立し、心学の普及と庶民教育に努めました。
     ここで、大島村をはじめとする一般民衆の多くの人々が心学を学びました。
     有隣の後、弟子でもあった子の有斎が引き継いで、恭倹舎での心学普及を通した教化にあたりました。
     またその後も、大島地区の恭倹舎講として昭和2122年頃まで活動は存続していました。
     なお、恭倹舎は保存会の人々によって現在も集会所として維持されており、史跡として県の文化財にも指定されています。


    【有隣塚】
    有隣塚
     恭倹舎を設立後、再び江戸に出た有隣と保宣は、関東心学界の指導者・教育者となり、大名や旗本に招かれて諸国を遊説するなど、積極的な普及活動を続けます。
     保宣は師匠であった中沢道二に若くして深く信頼され、参前舎では師の留守中に代理を任され、その死後文化2年には、参前舎主に推された程でした。
     また、有隣も、参前舎主になり、文政2年からは、幕府の招きにより佃島の人足寄場で教諭方(今でいう教誨師)を務めています。75歳の時には、彼を慕う門人たちにより寿碑が建立されています。 
     有隣は、天保7年に82歳で江戸において惜しまれつつその生涯を閉じました。墓は下高野の永福寺にあります。




    更新日:2011年06月08日

    この情報はお役に立ちましたか?

      

    返信が必要なご意見の場合は、別ページの「お問い合わせ相談窓口」からお願いします。


    アクセスカウンタ