杉戸町立高野台小学校
校長室だより

平成29年度の校長ページは、ほぼ毎日職員に配布している「校長室だより」を掲載します。縦書きの文章だったので、数字の多くは漢数字です。お許しください。また、個人名等は、HP掲載に当たり、変えてあります。

※ほぼ、リアルタイム掲載を心がけます(当日、または、翌日)

※職員配布分には、東井義雄著「一日一言」を掲載していますが、HP版では割愛します。

 


新校長室だより
 わかば第百三十一号
  平成二十九年十月十九日(木)行って来ます
 今日から二日間、会津への修学旅行に行って来ます。原発事故から途絶えていた会津への旅行です。お天気がまたもや心配ですが、s先生が行きますから大丈夫でしょう。
 本当に今年は、悩ましいお天気で苦労します。いや、悩ましいどころか、大変な気象状況で災害に襲われた地域ものことを考えると、このぐらいの雨、ほどよいお湿りとしておきましょう。何より、生き物には「水」が不可欠なのです。
 さて、修学旅行では、校外学習におなじみの「速報写真館」で現地から活動の様子を適宜あげていきます。この仕組みは、現地で写メを送るだけで、瞬時に保護者がみることができるという便利なものです。
 以前の学校では、インターネットサーバーを個人で立ち上げている職員がいて、そのサーバーでphpというプログラムを走らせて可能にしていました。しかし、転勤した先の学校ではそういうサーバーをもっている方はいませんでした。そこで、、無料レンタルサーバーの中でphp対応のところを探して活用しました。高小に来る前にそのレンタルサーバーが停止してしまって、困っていたところ、なんと、グーグルブログを利用すれば、同じようなことが簡単にできることを見つけたのでした。
 ただし、設定には、結構気を使います。「いいね」ボタンを外したり、広告を非表示にしたり、また、外部から投稿をできなくするというのも必須です。インターネット黎明期には「掲示板」をもっている自治体もありましたが、今はほとんど消えてしまいました。それは、無責任な批判がHP上に掲載されてしまうリスクがあるからでしょう。
 なぜ、このようなめんどくさいことを記述するか。先生方の参考になればと思うからです。小学校でもプログラミング教育が始まります。理科や総合の中で体験的にプログラムを動かすという学習が始まるのです。大昔のBASICとかCOBOLとかではなく、小学生でも感覚的に入力できるものでしょう。ただ、コンピュータプログラムの基本的な論理的思考は変わらないと思います。
 「なんだか、知らないけど、勝手にこうなってしまった」というのはコンピュータの世界にはあり得ません。そこには、論理という一つの信頼性がある。しかし、その論理は間違っていないけど、倫理面からは、酌量されていい部分も、人間社会にはある。
 プログラミング教育は、そうした人間の頭脳の柔軟性の大切さへも踏み込んで指導できるとベターではないかと考えてしまいます。
 あ、修学旅行でした。ときどき、「速報写真館」をのぞいてみてください。

 

 


新校長室だより
 わかば第百三十号
  平成二十九年十月十八日(水) 「指導」ということ
 イギリスのことわざです。You can  take  a  horse  to  the  water, but  you  can’t  make  him  drink「馬を水場に連れてくることはできるが、水を飲ませることはできない。」
 おそらく、先生方も、大学で教育心理や、教育学概論で目にしたり聞いたりした方がほとんどだと思います。
 しかし、「馬は、言葉が分からないから、飲め、と、言っても、飲まない。」ぐらいの理解では困ったものです。それでは、言葉が理解できたからと言って、馬が「飲め」と言われて水を飲むのでしょうか。
 水が飲みたくなかったら飲まないのは当然でしょう。命令されたから、余計、飲まないという場合もあるかも知れません。または、牧童Aに言われたなら素直に飲むが、牧童Bに言われたって飲むもんか、という場合さえあります。もっと言うと、場合によっては狂犬病の症状で、水が怖くなって、水場には引きずられてきたが、水を「飲む」なんてとんでもない、ということだってあるのです。
 馬が言葉を理解できる場合、牧童は、「この水を飲めば、午後、少し自由時間をあげるぞ」とご褒美で釣るかも知れません。あるいは、「この水を今飲まなかったら、今後三日間、餌を食べられるとは思うなよ」と脅すかも知れません。それでも、水を飲もうとしなかった場合、「こんんなに言っているのに、なぜ、水を飲まないんだ!根性が腐っている。お前のためを思って言っているんだ!」と厳しく叱るかも知れません。終いには、鞭でたたきはじめることも想定されます。
 馬は、厳しい言葉にじっと耐えながら、「水を飲もうと飲むまいと勝手じゃないか。俺のためと言っておきながら、この牧童は親方に怒られるといけないから言っているだけだ。この牧童の言うことなんか金輪際聞くもんか!」と怒りで胸を熱く焦がしているかも知れません。
 心ある牧童なら、言葉を理解できる馬から、話を聞くでしょう。「どうして水を飲まないの?」「おなかいっぱいなの」「体の具合の悪いところはないの」そして、ひとしきり状況を尋ねたあと、「そうか、それは、大変だったね。じゃあ、そのことは、私も力になるから、この後解決すると約束するよ。でも、今、せっかく水場に来たのだから、体のために少しだけでも飲んでいこうか。あ、無理はしなくていいよ。」

 

 クラスの子が宿題をやってこなかったから、「指導した」。それって、ただ叱っただけではありませんか。非難しただけではありませんか?「あんたのため」と言いながら、自己満足でしょう?解決を一緒に考えてあげましたか?それって「指導」なんですか?いいえ、間違いなく、いじめですよ。
 私たちの仕事は、指導し、諭すことがメインであって、言うことを聞かせるという単純なことではありません。叱ったり、脅したりして言うことを聞かせるだけなら、ど素人でもできるのです。
(新聞を読んで、書きたくなりました) 


 新校長室だより
 わかば第百二十九号
  平成二十九年十月十七日(火)忘れられないこと
 「雨上がり、ぞうきん片手に駆け出した、雨のち晴れの運動会」
 これは、初任十一年目のときに担任した六年生が詠んだ俳句です(俳句?「運動会」が秋の季語であることと、「雨上がり」は季語にならないことを確認済み)。あのときは、まだ、インターネットは普及しておらず、177やテレビの天気予報だけが頼みの綱でした。しかし、予報通り、雨脚がやみ、五六年生の子どもたちがぞうきんとバケツをもって校庭整備にあたり、開会式は遅れたものの青空ののぞく運動会になったのでした。
 今回の高小の運動会も、それに劣らず、保護者の方々を始め、地域の方も一緒に薄暗い中から、黙々と、スポンジで水を吸って校庭整備をしてくださいました。本当に、地域の方々に支えられている学校。地域・保護者の熱い想いの詰まった学校を実感しました。ここで働くことができる私たちはなんてしあわせなんでしょう。その思いを正面から受け止め、子どもたちのために精一杯努力しなければならないと気持ちを新たにせずにはいられません。
 さて、当日、プログラム中は、できるだけ、動かず、責任者らしく、本部脇のベンチにどっかり落ち着いて座っていよう、と思い実行しました。子どもたちだけでなく、参観者のトラブルも情報を吸いあげ安くと考えたからでもあります。
 正解でした。一つは、玉入れのトラブルを解決することができました。それだけでなく、じっと動かないことで参観者の気持ちが分かったのです。それは、「寒い」ってこと。暑がりの私が長袖シャツの上に高小ポロシャツを着ていましたが、それでも寒い。秋の季語である「運動会」につきもののイベント用テントの景色と、体感温度との違和感。びっくりです。そこで、岩浪事務主幹にホッカイロを探してもらい、来賓と敬老席に配ることができました。二人で「よろしかったらどうぞ。」と配って回ったのですが、断る方はほぼゼロ。やはり、寒さにお困りだったのですね。
 朝の準備時には、私自身、校庭整備に必死で体を動かしていたため、熱くてカッパを脱いだほどです。その熱も下がり、参観者と同じ運動量になったとき、体感気温も同期したというわけです。動かず、回りと同期することで知る情報もあると初めて学びました。
 その後の打ち上げでは、朝というより、夜明け前の早い時間からの勤務ということで、早々に私も帰宅してしまったのですが、夜中に筋肉痛で目が覚めました。両膝に鈍痛さえ感じるのです。スマホと、スマートウォッチの歩数計では一万五千歩を記録していました。普段の一.五倍です。本番では、主に椅子に腰掛けていたのにもかかわらずです。
 「校庭にスポンジばらまき整備して、カイロ(懐炉)で温む運動会」佐藤。残念!季重なり。しかも秋と冬・・・。

 


新校長室だより
 わかば第百二十八号
  平成二十九年十月十四日(土)ありがとうございます
 昨日も、その前までも、児童の活躍のために、熱心にご指導いただきありがとうございます。準備の方も雨の中、運動会が開催できるようにやっていただきありがとうございます。
 運動会は、きっと、今日開催できるでしょう。週間天気予報を見ると、明日を逃すとまたずっと雨です。皆さんの熱意や、子どもたちの想いが、雨雲を吹き飛ばしたのかも知れません。
 今日は、グラウンドコンディションは最善とは言いがたいと思います。是非、気づいたことがありましたら、具体的に改善していきましょう。よろしくお願いいたします。

 

 基本的な考え方は、先生方がお気づきのように、児童の安全第一です。重ねてよろしくお願いします。

 ※ネット版のみのコメント※

 今日は、明け方まで雨が降り続いていましたが、明け方前の真っ暗な中、車のライトを光源にして、テント設営をやっていただきました。ありがとうございます。保護者の方々だけでなく、地域の方々も薄暗いうちから校庭整備にご協力をいただきました。ありがとうございました。徒競走を後日に回し、開会時刻を1時間遅らせることで、無事 運動会を開催することができました。ありがとうございます!


新校長室だよ
 わかば第百二十七号
  平成二十九年十月十三日(金)組織と学級
 教師としての信念・理念、皆さんお持ちだと思います。それがないと、時々言われるように、サラリーマンだとか、労働者とか、それで何がいけないの?ってぐらいの皮肉をこめた評価をされてしまう。胸を張って、「そうです、サラリーマンです。お給料を月々もらっていますから。」「そうです、労働者です。労基法に従っていますから。」「でも、私は教師としての信念を持っています。」これは、心構えと言ってもよいでしょう。
 ある人は、児童中心に考えるし、ある人は授業最優先に考える。それぞれです。今まで培ってきた学びや人生経験から勝ち取ってきたものが、その信念を形成していくことでしょう。
 しかし、その信念こそを最優先することで、学校組織の一員としての働きや意義を忘れてしまうと、学級王国になってしまいかねない。それが、日本の学校教育が組織的に進まない一因と考える学者さんもいます。
 今年度の学校経営の重点にあげたものは「授業を通した人格形成」であり、児童の「わかる喜び、できた楽しさ」を追求するということです。学校教育目標については、その重点から迫っていこうというスタンスなのです。中間面談では、重点に関連したお話を聞けるととても嬉しくなります。ああ、組織が機能している、先生方と想いを重ねることができている、と感じられるからです。そして、なによりも、子どもたちの嬉しそうな姿が見えてきそうなのです。
 学校は楽しいところで無くてはならない。行きたいところで無くてはならない。分かるから楽しいし、行きたくなる。そういう場所でなければならないと考えるからこそ、「授業を通した人格形成」なのです。小さな達成感、成就感を積み重ねていくことで、深い学びに向かう子どもたちを育てていく。そんな日々の取組が、一時間一時間の授業の中で営まれている。そして、行事でも、一人一人を見つめた課題を設定し、達成したことをともに喜んでいく。
 運動会の練習で忙しい中、教科の学習指導にも熱心に取り組んでくださっている先生方を見ていて、初心を振り返りながら書かせていただきました。ありがとうございます。舌足らずですが、今日は以上です。  

 


新校長室だより
 わかば第百二十六号
  平成二十九年十月十二日(木) 品性
 直進すると右折レーンに入ってしまうので、左にウインカーを出す。すると、多くの車は、間を空けて道を譲ってくれます。でも、ときどき、ウインカーを出した後なのに、ググッと車間をつめる方もいます。その方にとっては、「割り込み」として、こちら側の行為を「ずるい」と思っているのかも知れません。ただ、客観的に考えて、車のスピードや、赤信号での停止などの要因を考えると、結果として数秒と変わらない到着時刻のために、車間をつめて、割り込みさせないという運転手の「品性」の薄っぺらさを考えずにいられません。そして、きっと、車という仮面をかぶっているからこそできる行為なのだと思うと、その運転手の真の人間性が表れているのではないかとも思います。
 先日、コンビニで缶コーヒーを買ったときのことです。私よりも年上の男性が先にレジに着いたようなので、私はその後に並ぼうとしました。すると、「あ、先にどうぞ。」と言われてしまったのです。ちょっと、びっくりして、「ありがとうございます。」とお礼を言った後、その男性のカゴをみたら、たくさんの商品が入っているのでした。おそらく、自分のレジは時間がかかるから、缶コーヒー一つぐらいなら、お先に、という親切心だと想像しました。この時に私はこの男性の「品性」と余裕、日本人として、当たり前の心を見たように思い、嬉しくなりました。
 コンビニは、客がレジにたくさん並び、休止していたレジをあけるとき、順番を守るために、「二番目にお待ちのお客様どうぞ。」と客の列に声をかけます。それが、マニュアルにあるコンプライアンスでしょう。間違ってはいません。その声がけで、二番目に並んでいた自分がホッとすることもあります。しかし、「お先にどうぞ」というしなやかさに、そのマニュアルは対応できないでしょう。順番通りというのは、公平・公正なのかも知れません。しかし、正しいからと言って、それを当然とするのも、なんだかそれも殺伐としているように思えることもあります。だいたい、「正義」という概念も、文化的なもので、ピレネー山脈を越えてしまえば全く異なるものになるのは歴史や、文化人類学が証明しています。
 価値観そのものも、人によって違うし何がいいとか悪いとか一概には言えません。具体的には、勤勉を表す言葉「今日できることは明日に延ばすな」は、イスラムでは「明日できることは今日するな」になるそうです。ただ、日本という社会で生活し活躍していくためには、ある程度共通の価値尺度が必要になってくるのです。だからこそ、日本的なものを大切にしていかないと、教科としての道徳を指導が難しくなってしまうように思います。

 

 人によっては「お人好し」と思われるかも知れませんが、「お先にどうぞ」と心に余裕を持てる人間になりたいものですし、そういう人間に子どもたちを育てたいと思います。 


新校長室だより
 わかば第百二十五号
  平成二十九年十月十一日(水) 育てるチャンス
 運動会の練習も佳境に入ってきました。練習は今日を含めてあと、三日。仕上げの段階です。それにしても、せっかく開催日を十月にずらしたのに、夏の天気まで十月にずれてきちゃって、どうなっているの?地球温暖化。その上、天気予報は、もう明日から傘マークがつき始めました。それが、来週の火曜日までずぅっと傘。どうしたことでしょう。準備の金曜日も傘、予備日の日曜日も傘、第二予備日の火曜日も傘。それなのに、昨日今日のこの夏の気候!。何かバチでも当たったのかとは思わずにいられません。
 いや、バチが当たったのなら、昨日のS君、T君両名(三小Tさんも含む)のサクラサクはなかったでしょう。きっと彼らの笑顔が土曜日を晴れにしてくれると思いますし、なんと言っても、高小には、U先生とS先生がいるから、晴れます。
 昨日の校長会に引き続き、今日は教頭会が高小で開催されます。AさんやSさんには本当にお世話になります。また、駐車場では多くの先生方にご協力いただきありがとうございます。
 教育長からの話の中に、「十月、十一月と行事がたくさんある。ただ行事をこなすのではなく、一つ一つの行事で子どもたちの何を育てるのか、意図をもって計画し実施する。」ということがありました。全くその通りです。この「育てる」意識・意図がないと、例年通り、子どもたちは、「先生の話したとおりに動けばいい」という意識しか持てません。指示待ち人間を積極的に作ることになります。
 「さぁ、次はどうすればいいかな?」「力強さを表現するには?」「しなやかさを出すには?」子どもたちに投げかけることも重要ですし、「任せる」というのも大切です。ジグソーなども、任されたことに責任をもつ仕掛けでもあります。町の体育祭は、今年は、役場の二十歳の若手に仕切らせたのだそうです。任せて育て、ダメならトップが責任を取る。若い人を育てるには、そんなリスクも必要です。
 例えば、運動会の開会式閉会式で、子どもたちの何を育てるのか。放送担当の子の表現力。大きな会を進行するという責任感。○○ちゃんが、集団の中で、一緒に行動できた自信。△△ちゃんが、友だちにちょっかいを出さずに、集団の中で、みんなの一員として活動できる楽しさ。◇◇さんが、自分の力を出し切ったという、満足感。一人一人の児童に目を向けながら、この子には、これを目標にしよう。あの子には、ここまでできるようにしよう。
 そう具体的に、教員が個々のめあてを設定し、それに向けて育てていくことによって、意図と計画、そして方策が出てきます。もちろん、それを記録しておくことです。それが、通知表の所見に血を通わせることになります。
 教育長のおっしゃるように、運動会だけではありません。修学旅行でも、合唱祭でも・・・行事は、子どもを育てるチャンスなのです。

 


新校長室だより
 わかば第百二十四号
  平成二十九年十月十日(火) 町民体育祭は、日曜日、無事晴天の中で行われました。本校のリレーチームは、練習の成果を生かし、男女ともバトンをスムーズに渡すことができました。競争の方は、残念ながら、満足のいく結果にしてあげられませんでした。第六レーンのくじをひいたことを含め、私の責任です。
 あいまい文
 【問題】
次の文例のうち、あいまい文ではないものはどれですか。次の中から一つ選びなさい。
  一 そこには大きい会社のビルが建っています。
  二 彼は難しい新人の教育を担当しています。
  三 私のチームは太い信頼の絆で結ばれています。
  四 明日、新しい社長の経営方針が発表になります。
これは、日本電信電話ユーザ協会の「もしもし検定」の問題です。みなさん、どれだと思いますか?「あいまい文」というのは、よく分からないという意味でもあります。

 

 ところで、先日、二年生の国語の授業で、先生が、主語、述語を指導してくださっていました。そして、先生が、じゃあ、こんな文はどう?と提示したのが
「お母さんが、風邪をひいたので今日は体育を休みなさいと言った。」と、いう文です。(多少違っているかな)
 子どもたちは、次々に挙手をして「お母さんが風邪をひいて、体育を休むのはおかしい。」「お母さんが風邪をひくと体育を休んでお母さんのところにいなければいけないの?」「風邪をひいたのは、子どもでお母さんじゃないのでは?」など、その文章のおかしな点に気づいてきます。
 「では、どうすれば、いいのかな?」と先生。最終的には「お母さんが、(ぼくが)『風邪をひいたので、今日は体育を休みなさい』と言った」と、直りました。子どもたちに考えさせるというより、「あれ?変だ。何だろう?」と考えたくなるような「仕掛け」でした。子どもたちは、述語に対する主語は何かと、考えていました。
 ただ、私なども、日々、おかしな文章を書いているような気もして心配になります。先生方、くれぐれも、「これはねぇ、校長先生が書いた文章。なんかおかしいところない?」なんて使ってくださらないようにお願いします。使ってくださるにしても、「あるおじさんが書いた文章です」など、匿名設定でお願いします。

 さて、もしもし検定の答えですが、三番が正解。「太い信頼」という使い方をすることはないので「太い」は「絆」にだけかかります。一は「大きい」のは「会社」なのか「ビル」なのかあいまいになります。二と四もお気づきの通りです。


新校長室だより
 わかば第百二十三号
  平成二十九年十月六日(金) 先取り
 昨日の朝は、びっくりするほど気温が低く、風邪でも引いたかと思うくらいでした。午前三時頃には、中秋の名月となった、まだ満月ではない十月四日の月が西の空に輝いていました。その時にはまだ、Tシャツでしたが、どんどん気温が下がり、ゴミ出しをした五時頃には、思わずフリースを引っ張り出して着込むほどだったのです。
 出勤も、クールビズなんてとんでもない。ネクタイも巻いて、首筋から冷気が入ることも防いだら、車のオートエアコンも、暖気を吹き出してくれています。季節を先取りして、「もうすぐ、こんな気候がやってくるぞ~。」と大自然が教えてくれているようでした。
 吐く息こそ、白くはなかったものの、学校に着くなり、暖かいコーヒーがほしくなったのも無理はありません。運動会どうかな、「防寒着を用意しましょう」なんてことを、先生方が連絡帳に書くような気候になったらどうしよう。ああ、十月にもってきた私の責任だ、と、心配していたら、お日様が出てくると、気温が上がってきました。のど元過ぎれば熱さ忘れる、の例え通り、また、冷たい飲み物を欲している自分がいます。
 かいの木も、見上げると、少しずつ色づいてきています。サクラの葉は、かなり落ちたり虫に食われたり、季節が進んできていることを感じさせます。予報では今日と明日が雨。明日は幼稚園で運動会が予定されているところもあり、悩ましいところです。その雨が過ぎると、また、最高気温が二十五度前後の比較的暑い日が戻ってくるのだとか。町の体育祭は二十七度の好天に恵まれそうです。
 昨日の週間天気で予報では、水曜、木曜に最高気温が二十一度前後に下がります。金曜日はどうなんでしょう。そして、何よりも気になるのが、土曜日です。てるてる坊主をつるして備えたいところです。♪てるてる坊主、てる坊主。あ~した、天気にしておくれ~♪と祈りたい気持ちでいっぱいです。
 ただ、再来週は修学旅行。きっと紅葉に映える猪苗代湖が望めるのではないかと期待しています。開校以来、会津若松だった修学旅行が、震災から六年間、鎌倉だったのです。それを、七年ぶりに会津に戻します。日光街道を経て、会津西街道の先にある会津。杉戸宿とはゆかりがあるのです。
 先々を考えると、新しい学習指導要領が平成三十二年度に本格実施になります。それに伴い、来年度から平成三十一年度の二年間は「移行期間」となるのはご承知の通りです。この移行期には、学習指導計画をしっかり確認しておかないと、履修漏れや、重複履修が起こってしまいます。先取りして、教材や備品についても怠りなく準備しておく必要があります。 

 

 


新校長室だより
 わかば第百二十二号
  平成二十九年十月五日(木)見直し
 今日も、笠井先生の著書の抜粋です。今日は、ほとんど引用。

 

 「いつも言っているでしょう。見直しをしなさいって。そうすれば、こんなケアレスミスはしなくなるんだ。」
 2桁×2桁の計算練習をしたときだ。こういう言葉を聞いた子どもの気持ちを想像してみよう。明日から、計算が終わったら見直しをしようと思うだろうか。
 「あれ?よく見てみたら、6×7が出てくる計算だけ間違えているよ。6×7は42なのに、48って書いている。この問題でもそうだ。間違えている問題はすべて6×7が出てくる問題だよ。2桁×2桁のかけ算のやり方は正しくできているのに本当に惜しいね。6×7だけ明日までに覚えてくることにしないか」
 テストの見直しをすること、学習の振り返りをすることは大切だ。だから態度として身に付いていてほしい。けれども「振り返るってことって何することなの。何でしなければならないの?」という問いを感じさせないために、先生が子どもの代わりに振り返ることで「自分の計算のいいところは、計算の仕方をきちんと覚えていて、間違いなく手順通りに遂行できることだ。逆にこれから頑張るところは、6×7の答えを着実に42といえるようになることだ。」と振り返ることの価値を学習の中で具体的に実感させていくことが大切である。
『アクティブラーニングを目指した授業展開』笠井健一編著より

 ワークテストの採点も、丸は簡単につけられるのですが、児童の答えが間違っているとき、なぜ、間違えたのか見つけることは「評価」という意味を考えたときにとても重要です。笠井先生の例のように、例えバツになったとしても、その問題が2桁×2桁の計算の手順を正しく身につけたかを見る問題なら、手順が完璧なら評価はプラスでしょう。ただ、個人的課題として、6×7が残っています。これは、このテストの評価としてはふさわしくない。だから、その部分でマイナスにはしない。そのぐらいのことは皆さんの多くはやっているのではないかと思います。機械的に×をつけて評価もマイナスなんてことは断じて行ってはいけないのだと思います。算数嫌いを生んでしまいます。
 以前にも書きましたが、ガロアなど世界的に有名な数学者を輩出しているフランスでは九九は5の段までです。九九は便利な道具ですが、暗記に過ぎません。数学的能力とは違う部分で理解する必要があると思います。現に、九九がスラスラ言える幼稚園生もいるし、二年生でスラスラ九九を暗唱できる子が3年生になったら、割り算どころか、引き算がからっきしできなかったということも良くあります。 


新校長室だより
 わかば第百二十一号
  平成二十九年十月四日(水)過去、現在、これから
 算数の教科調査官、笠井健一先生の著書からの抜粋です。

 

 戦前から行われていた授業。「分数に分数をかける計算は、分母同士、分子同士をかけます、と結論を教えて、分数×分数の計算練習をさせる。」
 少し時代が進むと、「分数に分数をかける計算はこのように面積図に表すと、答えを出すことができる。よって、分母同士、分子同士をかけます、とわかりやすく先生が説明し、結論を伝え、分母同士、分子同士をかける計算を練習する」授業に変わってきました。
 平成元年の、分数のかけ算に関する学習指導要領の記述は「分数の乗法の仕方について知ること」とありました。しかし、指導書では、「形式的に覚えさせるだけでなく、その方法を児童にも工夫して考え出させるようにする必要がある。」と書かれました。
 その後、平成十年の指導要領では「分数の乗法の計算の仕方について知ること」から、「分数の乗法の計算の仕方を考え、それらの計算ができること」へ変わりました。
 現在の学習指導要領では、分数×分数の計算は分母同士、分子同士をかけることの理由がわかることだけでなく「子どもが計算の仕方を考えること」言い換えると、子どもが「分数のかけ算では、分母同士、分子同士をかけるとよいことを見いだすことができること」を目指すことが求められています。
 先生方は、自分が小学生のときに受けてきた授業ではない授業を、目の前にいる子どもに行うことが求められるようになったのです。
 「結論を教えて、練習する授業」だけをしていると、「子どもは、大人の言うことを聞いて、その通りに行えばいい」という世界観が形成されやすい。しかし、大人の中には、間違ったことを言う大人もいる。いい大人もいれば、悪い大人もいる。大人の言うことを鵜呑みにするのではなく、その理由もわかる、考えることのできるようになって欲しいのです。

 笠井先生の言いたいことを、私流に、乱暴に言いかえると『やり方を教えて、練習させるのは、百年前からやって来たこと。指導ではなく、素人でもできること。』『いかに子どもたちに考える力を養うのか、教材はそのためのものに過ぎない。』ということになるのではないでしょうか。
 分数同士のかけ算の仕方を戦前のように、「分母同士、分子同士をかける、というのを教えて、後は練習させる」では、理解できなかった責任を、いや、理解じゃないですね、「できるようにならなかった」責任を、児童にだけ求めています。
 「私はちゃんと教えました。」というような言い訳は、「教え諭す」教諭としての使命からは、逸脱しているとしか考えられません。単に解き方や答えを教えるのは実に簡単なのです。いかに考えさせるか、そういう授業をコーディネイトするかが今後も大切です。


新校長室だより
 わかば第百二十号
  平成二十九年十月三日(火)私、不器用ですから
 なんか、こう、書くと、高倉健さんみたいです。でも、私が書いたものを皆さんが読むと、(あ、あぁ、そうだよな。校長、不器用だよなぁ、かっこ悪。)と、思うかも知れません。高倉健さんだから、(かっこいい!渋い!男だねぇ)となる。これからの社会で求められている力に「コミュニケーション力」がありますが、悲しいことに、やはり、私たちは、知識や知恵が付いてくるほど、言葉の純粋な意味よりも、「誰が言ったか」というバイアスをかけて言葉を聞きます。
 信用できると思っている人が言ったことなら、フムフム、なるほど、さもありなん。たいしたもんだ。となる。しかし、敵対していたり、快く思っていない人が言った言葉については「何言ってやがんだ。あんたに言われたくないね。やっぱり信用できないや。」とまで、なるでしょう。
 こうした効果は、実社会でも利用されています。例えば秋の交通安全運動に人気の歌手やグループが出てプロモーションする。普段流れているCMだって、美人や、美男が出てくるものがほとんど。そうでないとしても、人気芸人など、ネームバリューがある人を活用しています。
 昔にさかのぼっても、「世の中を平らかにしようとして大仏の建立をした」という政権がありましたが、そのときに活用したのは、ボランティアで貧困対策をしたり、灌漑工事などの公共工事を手がけていた僧侶。つまり、大陸から入ってきた、先進的な仏教と、その理念を実行していた人々を自分の政権維持のために利用したとも考えられます。つまり、政権維持のための言葉を、他の人気あるものや人の偏見を活用したと思われます。
 このことは、大昔のことなので、本当かどうかは、反対政権側の正確な資料が残ってはいないので、あくまでも推論です。しかし、冷静にその頃の社会事情から、あながち全くの空想とも思えません。
 だからといって、これからのコミュニケーション能力は、「誰が言ったか」を考えて、適切に判断しなければならない、ということを言いたいわけではありません。人は、誰であれ、思ったことを言っていいし、どう思われるかを気にしないで行動しなければならないときもあります。ただ、日本の社会は、総じて、そういう言動を、文化的に「かって」と思われてしまう。以心伝心という言葉が文化として存在するのです。
 車が交差点に近づくと、信号は、黄色から赤に変わった。左折のウインカーが、カッチ、カッチ・・・と落ち着いて繰り返している。横断歩道では、降り出した雨を気にするように、自分の頭を、左手で覆いながら、速足で高校生が二人右方向に歩いて行く。両名は、重たそうなリュックを背負い、右手には、参考書だろうか、文庫本よりもやや大きい書籍に中指をかけているのがわかる。セダンの中で、雨に濡れずにすむ私の顔をチラッと見たように思えた。 私、不器用ですから。 

 


新校長室だより
 わかば第百十九号
  平成二十九年十月二日(月)ひっつき虫
 東門ぞいの遊歩道にキンモクセイの花がたくさん落ちてまるで舗装路を所々黄色いグラデーションで染めているようです。桜の葉も色づき始め、落ち葉が賑やかになってきました。踏みながら歩くとサクサク、シャカシャカ音がします。昨日の雨にも関わらず空気が乾いてきていることを実感します。
 この時期に、子どもたちが友だちに投げて遊ぶ植物がアメリカセンダングサ。房ごと取る状態の時はそれで遊べるのですが、熟して、線香花火のように開いて種をつけると、ちょっと触れただけで、衣服にたくさんくっついてきてしまいます。同じようにくっついてやっかいなのがイノコズチ。2~3ミリの小さなうり坊みたいな実がやはりズボンにまとわりつく。種をつける前に気をつけて抜くようにはしていたんですが、保健室の前にたわわに種をつけているのを発見しました。
 野原に行くとオナモミの実も見つけることができるでしょう。こちらはベルクロテープの原型と言えるような巻き巻きのとげとげでハリセンボンのようなユーモラスな形。ヌスビトハギなども、半月型の種をべたーっとズボンにくっつけます。いずれも「ひっつき虫」と言われ、種子を動物の毛にくっつけて、広範囲に運ばせて子孫を増やす植物です。
 子どもたちが、登下校時、に友だちどうして投げ合ったり、くっつけ合ったりして遊ぶこともこの実りの季節には良くあることです。くれぐれも、交通事故に遭わないようにすることと、間違っても、知らない人に投げたりくっつけたりしないことを指導してくださることと思います。
 さらに、大人も子どももいたずら心から、こっそり友だちの背中にくっつけ(ウフフ・・・)と笑ったりして、くっつけられた友だちの顔をのぞき込んで「気づかない?」なんてことは良くあること。私も、担任時代に(教頭になってからもかな?)子どもたちにくっつけられたことがあります。 しかし、そうしたことが、即、いじめに直結するとは思いません。気の置けない仲だからこそ、そういうふざけっこができるのだと思うのです。いじめたい子に対して、ひっつき虫を投げつけて、陰で冷ややかに笑っている子や、子どもたちを想像すると、(そんな、ドラマみたいな恐ろしい冷血な心をもった子どもっているのかな?)と恐ろしくなってしまいます。卑怯ですし、不気味です。
 一昨日の土曜日は、泉や二小、三小が運動会だったそうです。お天気に恵まれ(それほど日差しが強くなかった)絶好のコンディションでした。私は高野台保育園の運動会に閉会式まで参観してきました。〇歳児から五歳児まで、年齢の違いとできることの差を目の当たりにして、改めて「発達段階」という言葉を思い出していました。五歳児のダンスは、キレがあって、とっても素敵でしたよ。小学校も負けられません。

 


新校長室だより
 わかば第百十八号
  平成二十九年九月二十九日(金)福祉教育
 昨日は、四年生が町の福祉協議会の方々をお招きして、福祉体験の学習をしました。四年生の先生方、計画から実施までありがとうございました。子どもたちは点字を実際に打ってみたり、触ってみたりと、国語の「手と心で読む」の内容をより深く理解できたのではないかと思います。
 「福祉」を調べてみると「しあわせ」や「ゆたかさ」を表す言葉とあります。「社会福祉」とすると、障がいをもつ方や、高齢者、未成年者などで、生活上なんらかの支援や介助を必要とする人や経済的困窮者等に対し、生活の質を維持向上するするため-のサービスとなります。
 本校にも、車椅子マークの駐車場がいくつかあります。大きなレストランや、コンビニにもそのマークがあり、「社会福祉が進んできていることが感じられます。 しかし、ときどき、「?」と思うこともありませんか。どう見ても健常者の方や、単に空いているからと、駐めているのではないかと思うことがあるのです。もし、そうだとすると、本当に必要とする方が利用できなくなるのではないかと心配です。
 私は実の父、義父と、介護経験があり、車での送迎などもやりました。あるとき、末期の癌だった義父が映画を見たいというので、映画館に連れて行き、駐車場を探しましたが、いっぱいで、ありません。そこで、車いすに乗せる関係で、駐車場の方にお話をして、搬入口の三角コーンを外して利用させていただきました。義父を車いすに移し、妻に後を託したのですが、車を別の遠い場所に移動しようと、搬入口を出て、三角コーンを戻そうとしたときです。そこに、若い夫婦の家族がワンボックスで入ってきたのです。
「ここは、搬入口で、車いすを利用するために一時的に空けてもらった場所ですよ。」と、穏やかに話したら、「まぎらわしいことするんじゃねぇよ!」と、すごい剣幕で怒られてしまいました。そして、バックで、危ない!と思うほどのスピードで車を出し、アクセルをふかしながら、別の場所へ行ってしまったのです。
 おそらく、恥ずかしさから、そういう態度になったと思うのですが、やはり、感じが悪いなぁと思ってしまうのはしょうがありません。しかし、家族(小さな子ども)を乗せているのに、知らない人にそういう態度を見せるのはやはり、教育上よろしくないなぁと、知らない人ながら心配してしまいました。
 福祉教育を受けた子どもたちが大人になる頃、私なども介護を必要とする状態になっているかも知れません。あるいは、身近な人が事故で、という場合だってあります。ラジオのCMで、「電車の優先席を、必要とする人が来たら替わってあげるために、率先して座る。」というのがありましたが、福祉を他人事ではなく、自分事として考えることも、大切だと思います。

 


新校長室だより
 わかば第百十七号
  平成二十九年九月二十八日(木) 外的コントロール  と それとは反対の関係
 外的コントロールとは、他人を力でもってコントロールすることで、具体的には次のようなことが該当します。
  ・責める
  ・批判する
  ・文句をいう
  ・ガミガミいう
  ・脅す
  ・罰する
  ・相手の意志を変えようとして、褒美で釣る
  ・他の人と比べる
 これらをひっくり返し、新しい形のコミュニケーションに変えると
  ・受け入れる(赦す)
  ・認める
  ・信じる
  ・待つ
  ・尊敬する
  ・応援する
  ・良い悪いの評価を外して、相手の話を聞く
(『自分の「うつ」を治した精神科医の方法』より引用)
 外的コントロールは、「パワハラ」を生み、「虐待」につながります。「体罰」もその延長線です。ドラえもんのジャイアン的な方法で幼児や小学生でもできるのです。「いじめ」というのも、外的コントロールの一つかも知れません。
 批判したり、責めたりするのはとても簡単。楽な方法なのです。自分の努力をせずに、もっともらしくコミュニケーションの断絶を生み、回りをコントロールする。ずるい方法とも言えるでしょう。だから、ヘイトスピーチなるものが蔓延する。ネットの世界でも「炎上」というデジタル暴力を生んでしまいます。
 親と子、教師と教え子、上司と部下、その関係の中に「外的コントロール」が生まれやすい。つまり、上下関係で対人関係を捉えるところに原因があるように思います。人と人とは、年齢や、立場、責任の差はあっても、基本的に対等なのです。命の重さを考えれば自明です。幼子だから重い、年寄りだから軽いというようなものは絶対ない。その逆もまたしかりです。
  さらに、「子どものことは、親である私がいちばん分かっている」ということも幻想です。お互いをわかり合えないからこそコミュニケーションや、「信頼」という関係の中で、お互いの関係を調整していくのだと思います。それがないと、「疑心暗鬼」という状態で、ギスギスするだけです。

 


新校長室だより
 わかば第百十六号
  平成二十九年九月二十七日(水) 発表会
 家庭科の児童研究発表会に行って来ました。本校の六年生女子四名の活躍を応援してきたのです。若い頃、理科の研究発表会で担任の児童が参加したときに、「発表会」の意味を知りました。まさに、プレゼンテーションなのです。研究内容ももちろん大切なのですが、聴いている人に、研究した内容を「プレゼント」すること、それが、とても重要なのです。プレゼントですから、「もらって嬉しい」と思ってもらわなければならない。つまり、自分たちが研究したことを淡々と原稿通りに読んでいたんじゃダメってことです。魅力的な発表になるためには、演技や、どこを強調するのか、メリハリが必要なのです。
 では、本校の子どもたちの発表はどうだったか。研究の中身は、動機から、研究内容、結果、考察と一本筋が通っていて突っ込みどころがあまり見当たらない。(手前味噌です。探せばあります。)発表の仕方は、パワーポイントを上手に使い、スライドの情報量も極力抑え、原稿の文章を読ませるというものもありませんでした。ということは、発表者の発表の様子を見たり聴いたりする必要感を引き出します。
 さらに、メリハリ。動機の部分、研究しようとした発端の場面での寸劇は、仲良し四人組が、普段の教室での会話を思わせ自然でした。女の子らしい日常的な掛け合いが、う~ん、あるある、ありそうだなぁ。と思わせてくれました。
 それでいて、実験の内容では、画面操作と、画面説明がきちっとわかりやすく進行し、なるほど、そうなのか、へぇー、という聴衆の知的好奇心も揺さぶりました。さらに、まとめの部分では、実際に、研究結果から分かったことをもとに、洋服のリフォームの実物を提示し、驚きも引き出していました。
 まとめの部分での寸劇も、次回の研究につながる、素敵な余韻さえ残してくれました。四人とも、演じることの楽しさを味わってくれたのではないかと密かに思っています。(ここに書いたから、もう、密かではなくなりましたが・・)
 こんなにべた褒めで書いてしまったのは、本校の子どもたちが活躍したからですし、活躍させてくださった先生方への感謝です。担当のN先生のみならず、指導を素直に聴く子どもたちに、先生方みんなで育ててくださっているのです。
 ところで、「インプロ」ってご存じの方はいらっしゃいますか?日本語に訳すと「即興」らしいのですが、教育の世界に、そのインプロを導入して効果を上げようというプロジェクトがあるらしいのです。学びを革新する動きかも知れません。

 


新校長室だより
 わかば第百十五号
  平成二十九年九月二十六日(火)話し合い?聞き合い?
 特別活動の主任をしていたとき、「カラオケ型発表会」という言葉を知りました。どんな発表会を想像しますか?さぞ賑やかな、元気な発表会でしょうか。歌う人に合わせて一緒に手拍子をしている姿を思いうかべた人もいるかもしれません。
 でも、違うんです。カラオケって、歌っている人の歌唱をみんなでうっとり聴いていることもありますが、数人で行くと、他の人が歌っている最中に、次に自分は何を歌おうか、ぺらぺらと一生懸命に曲の本をめくっているということがよくあります。その状態なのです。学習の発表時、友だちが発表している時間を、ろくに発表も聴かないで、自分や自分たちの発表の打合せをしたり、準備をしたりする時間に充ててしまう。その様子が、曲本をめくっている様子と重なるのです。(もっとも、今は、端末ですぐに選曲ができてしまうので、多少は以前より人の曲を聴く時間は長くなっています。)
 昨日、四年生の授業で、調べたことを発表する場面に遭遇しました。原稿をもたずに、適切な声で、資料も示しながら上手に発表しているなぁ、と感心していました。その子の発表の終盤にさしかかった頃でしょうか。ふと、聞き手の子どもたちを見ると、なにやらノートに一生懸命鉛筆を動かしています。「カラオケか?」と一瞬訝りましたが、そのノートの内容を見て安心しました。発表者の「よいと思ったところ」を自分の言葉でまとめているのです。聞く力を意図的に育ててくれていることを有り難く思いました。
 もしかしたら、ジグソー活動の「エキスパート」のように、発表者の良いところを見つけてまとめておかないと、次の学習活動に支障をきたすような、工夫が凝らされていたのかも知れません。あるいは、聴くこと自体を育てているため、それが自然の姿になっているとも考えられます。 いずれにせよ、「主体的・対話的で深い学び」というと、子どもたちが自分たち自身で話し合っている姿を連想しますが、話合いは「聞き合い」でこそ成り立つのです。聴くことを第一に据えておかないと、単に「言い合い」になってしまいます。聴いているから「うなずき」が出てくるし、「疑問点」も見つけられます。
 さらに、相手の言い分を認めつつ、自分の考えを主張できるようにもなります。「聞き合う」ことがなかったら、「気づき」も生まれてきません。私たちは、話しながら考えるよりも、聞きながら考えることの方が簡単に思えるからです。

 


新校長室だより
 わかば第百十四号
  平成二十九年九月二十五日(月)分からないと言える子を
 授業中の教師の言葉「ハイ、分かる人。」「ハイ、このわけを言える人。」これらは、発問ではなく、アンケートです。状況調査です。どのくらい理解できたかな?私の説明で大丈夫だったかな。という場合には良いでしょう。挙手をした子が数名なら、多くの子は、分かっていない。理解できていないということの表れになります。分かったと挙手をした貴重な数名のうちの一人を指名して答えさせ「そう、その通り。みんな分かったね。」で授業時間が過ぎていくとしたら、とんでもないことです。教師の(あるいは大人の)「分かりましたか?」は、子どもたちにとって、「聞こえていますか?」と、ほぼ同義なのです。ですから、そんなことを言われると、素直な子ほど「ハイ!」と元気よく答えちゃう。
 「外から帰ったら、すぐに手をあらうんですよ。分かりましたか?」と言われて、直ぐに「ハイ!」と元気よく答えたとしても、何に対してYESだったのかは、まちまちです。「外から帰るときの姿」と「手を洗っている様子の理解」ぐらいなのかも知れません。多くは、単純に「私の話を聞いていましたか?」に対してのYESでしょう。
 話者が期待しているだろう「これからは外から帰ったら手を洗うことに同意し、あしたから、それを実行します」などと決して同様の意味ではないのです。「あの話をしたとき、ハイって言ったでしょ?なぜ、その通りにしないの?」と憤ったり、怒ってみても意味のないことです。
 私たちは、学習指導のプロフェッショナルでなければなりません。しかも、発達段階の初期の未熟な子どもたちへの指導です。だから、「分からない」「理解できない」と言える子を育てていく必要があるのです。
 では、どうやって、「分からないときに分からないと言える子」を育てるか。先生方の授業を見ていて教えていただきました。それは、「なんで、分からないの?」という叱責ではなく、「あ、そうか、まだよく分からなかったのね。ごめん。先生の言い方が悪かった。これじゃ、分からないよね。」という姿勢です。前者は児童に責任を押しつけているのに対して、後者は、教師が責任を負います。主体的な学習を求められていますが「主体学習」ではなく、あくまでも主体「的」な学習なので、学習者は受け身です。指導したり差配したり授業をコントロールしている主体は教師ですから、やはり、責任を取るのは教師なのだと思います。
 そんなことを書きながら、打合せや職員会議での私の話は、一方的で、皆さんが了解したか、理解したか、確認もせず「話しましたから」とか、「話したという証拠に日誌に記入しておいてください」で、責任の所在を、聞き手の皆さんに押しつけてしまっています。反省しています。でも、みなさん大人ですから・・・。ただ、反面教師として参考にしてください。 

 


新校長室だより
 わかば第百十三号
  平成二十九年九月二十二日(金) 運動量の確保
 昨日は授業研究会お疲れ様でした。授業を提案してくださったH先生始め、低学年部会の先生方を中心に模擬授業、先行授業と指導案づくりからご苦労様でした。研究協議では、わかりやすい阿部先生の御指導で今日からの学習指導に生かしていただけるものと思っております。引き続きよろしくお願いします。
 さて、昨日の続きになります。実は、昨日も、本当はズバリ運動量の確保について言及したかったのですが、あれこれ考えているうちに、Dodge(素早く身をかわす)になってしまいました。
 授業のあり方を変える。児童の学習を中心に考える。これは、体育では、「学習」に「(体を動かす)活動」をどうしても落とせない。しかも、部活や、チーム練習のような、トレーニングオンリーに陥ってもいけない。
 いっとき「楽しい体育」が求められていたことがありました。いまでも、その根本のところは変わっていないと思いますが、トーンダウンしたのは、「楽しさだけ追っていて、体力が落ちてしまってはいけない」ということのような気がしてなりません。(ホントはどうなのか、どなたかご指導をお願いします。)
 かくして、「楽しさ」から、「鍛える」というものに変わってきた。そして、それが生涯をささえる宝物なのだと。さらに、昨日の研究授業のように体育でも、A.L.や、「主体的・対話的で、深い学び」と児童主体の話し合いでの問題解決活動が盛んになってきました。体育でも、グループでの話し合いによる解決活動が採り入れられてきます。すると、活動時間が削られてしまう。
 体育にとって、確かに話し合いも大切でしょう。しかし、話し合いで、活動量が減るという形ではなく、技を高める試技も含めて、主体的で対話的・深い学びに仕掛けを作っていく必要があるのではないでしょうか。つまり体を動かして試す時間も子どもたちに任せて考える時間とするのです。「こうしなければならない。」「こうすべき。」という今までの固定概念を越えて、子どもたちの学びを確保することが「運動量の確保」につながっていく。こんな冒険的な試みも、今、過渡期であるからこそ可能です。いろんな形を試してみてください。
 また、特に短くして、活動時間を生み出しやすいのは、教師の言動でしょう。できるだけ洗練することが必要です。余計なことは言わない。準備体操も、汗をにじませるくらい無駄なく構造的に行う。「体育係」に行わせるのもいかがなものか。特別活動の趣旨に合致しているのかどうか。今までやっていたからということは通用しません。現行の学習指導要領でも、認められてはいないのではないかと思います。

 


新校長室だより
 わかば第百十二号
  平成二十九年九月二十一日(木)dodge(素早く身をかわす)
 たった十五分の休み時間でさえ、汗びっしょりになって戻ってくる子どもたち。それが、体育の授業では、汗もかかず、息も切らさないとしたら、授業の構成に問題があると言わざるを得ません。授業の目標を重視するあまり、教員の話が長くなりがちです。これは、「授業を変えていきましょう」という新しい学習指導要領の趣旨とも反します。そして、埼玉県の子どもたちの体育に関する意識は、高いとは言えない現状につながります。
 どういうことかというと、具体的な例として、体育でサッカーの授業を行っているのに、休み時間に、子どもたちがサッカーをやろうとしない。生活化されていかないのは、おもしろくないからでしょう。鉄棒運動もそうです。逆上がりや、腕立て前転を授業で挑戦するのに、せっかくの休み時間には鉄棒に触ろうとすらしない。
 学習として、「逆上がり」に触れて、できるようになった子は、自信をもつでしょう。しかし、どうしてもできなかった子、どんなにスーパーティーチャーが指導しても、できない子もいるのです。「そういう子達は、学習としての鉄棒の単元が終わるまで、じっと耐えているのだ」と教えてくれた先輩がいました。だから、休み時間を使ってまで、鉄棒に挑戦しようとは思わない。
 学習から遊びへと思考を巡らすと、学習が生活化しないという発想になります。では、遊びから、学習を仕組むことはできないのでしょうか。つまり、遊びの要素を学習の中に採り入れるということです。単にゲームの要素のことを言っているわけではありません。遊びのように夢中になれる要素ということです。具体的には何を言っているのか、と、お叱りを受けそうですが、ちょうど、昨日五時間目に六年生のフラッグフットボールの授業が始まったときに、それらしいものが見られました。
 授業開始のチャイムが鳴り、校庭に子どもたちと先生が出てきて、ビブスと、フラッグを用意し始め、整列もしないうちに、用意できた子から、ゲームに参加し、体を動かしていました。フラッグを取られないように、先生も一生懸命逃げたり、取ったりしています。そして、全員が準備できて、ゲームに参加し始めてから、動きを止め、あいさつ、準備運動となっていました。ウォーミングアップとして流れるようで、うまくいっていたと思います。
 鬼ごっこの要素、オープンに動くということが入った動きは、ドッジ(dodge・素早く身をかわす)ボールのように、人にボールをぶつけたりしない分、もっとポピュラーになっていいと思うし、ハンカチをズボンに引っかけるだけの「しっぽ取り」としても広がって欲しいと思います。あの中から、ラグビーやフットボールに興味をもつ子も出てくるのではないかと期待します。 

 


新校長室だより
 わかば第百十一号
  平成二十九年九月二十日(水)あいさつ
 昨日、打合せで、教頭先生からあいさつをしない子の話が出ました。各クラスでご指導を重ねてくださっていると思います。教頭先生はマック出身、私も学生時代ロッテリアでバイトをしたことがあります。アルバイト研修で最初にやらされたのが、やはり「あいさつ」でした。その次に、厨房担当だったので、「○○バーガー、サンキュウ!」という返事。元気よく、明るくというのが、私のようなシャイな学生にはなかなかできない。それでも、何ヶ月か続けることができました。
 社会に出ると、甘えは許されず、業務としての「あいさつ」があります。しかし、私たち教員が小学校で指導するのは、業務ではなく、「礼儀」としてのあいさつです。あいさつをしないからといって、クビにはならないし、お小遣いが減らされるわけでもない。「めんどくさい、なんで、あいさつしなきゃいけないんだ。」と思っている子もいるかも知れません。つまり、簡単に言えば「めんどくさい」ということでしょう。
 私が子どもたちに、あいさつの時にハイタッチをするのは、声が大きかろうが、小さかろうが、私の行為に対して、具体的な反応を見ることができるからです。ハイタッチでなくても、中には決まって頭突きで(頭で)私の手にタッチする子もいます。あいさつすらめんどくさい子も、つまり、「おはようございます」と声に出さない子も、体を動かして、反応を求められるわけですから、手だけは出してくれるのでしょう。ほんと、行動を要求する校長だなぁ。困ったもんだ、と、思っているかも知れません。
 始めから、全員が反応してくれたわけではなかったのです。今でもときどき、手を出しても、無視する子もいます。今なら、そんな時、強制的に握手しちゃいます。「あなたが、手を出してくれなかったことは残念だけど、私はあなたを認めているよ。あなたの存在を認めているよ。」というメッセージであると考えるからです。
 月曜日など、荷物が多く、両手に何か持っていていても、わざわざ、左手に全部持ち替えて、右手をだしくれる子もたくさんいます。雨の日など、「濡れるから、いいかな。」と、こちらで思って、手を出すのを躊躇していると、わざわざ、傘を持ち替えて、手を出してくれる子もいるのです。廊下でも、手を出してくれる子もいます。嬉しくなっちゃいますよねぇ。あいさつは相手を嬉しくさせるのです。

 


新校長室だより
 わかば第百十号
  平成二十九年九月十九日(火) おなかのすく授業
 「おなかのへるうた」って知ってます?
♪どうして おなかが へるのかな
 けんかをすると へるのかな
 なかよししてても へるもんな
 という歌い出しで、youtubeで曲を聴くこともできます(今は便利!)私の子どもの頃の歌です。どうしておなかがすくか、先生方なら、子どもたちにどう教えてあげますか。「喧嘩をする」とへるわけは?と、子どもたちに「どうしてだろう」と考えさせるのではないでしょうか。そして、「体を動かすから」「エネルギーを使うから」「栄養をたくさん体がようきゅうするから」というような児童の答えを引き出していくのでは?。
 では、「仲良ししててもへる」というのは?「仲良しって、エネルギーのいることなのかな?」と、子どもたちに問いかけるかも知れませんね。「どんなエネルギーを使うのだろう」と、考えさせることもできます。子どもたちは、一生懸命、頭を使って、記憶を呼び起こしながら、考えたり、話し合ったり、ヒントを出し合ったりするでしょう。
 「心を遣うからではないか」「安心してゆったりした気分になっても、おなかがすくのかな」「仲良しじゃない人といてもへるんじゃないかな」「友だちといると、何か、遊んだりしてやはり、体を使うのでは?」思い思いに自分の考えをぶつけ合って、話し合っていくことでしょう。そして、ついには、「あぁ、なんか、考えていたら、ホントにおなかが減ってきた。」となるかも知れません。
 大相撲秋場所で力士たちが活躍しています。二百キログラムを越える力士もいます。体を作るために、無理にでも、たくさんちゃんこを食べるのだそうです。厳しい稽古もエネルギーをたくさん使うでしょうね。われわれ、常人には、想像もできない量の食事を摂っていると思います。
 さて、授業で、子どもたちが一生懸命考えるということを繰り返すと、子どもたちはおなかがすきます。脳が働くと、糖分を要求するからです。指導している教員も、きっと、おなかがすいてきます。どうやって、子どもたちに考えさせるか、考えるからです。つまり、子どもたちが「考える」授業をすれば、たくさん食べるということになります。
 逆に、子どもたちが考えることをしなくてもよい時間、挙手をしなければ、指名されない、おしゃべりせずに黙って座っていれば過ぎていくだけの時間、そういうものに授業がなっているとすると、おなかは減りません。ただ、座っているだけでも、人間はエネルギーを使いますから、そこそこ、おなかがすくでしょうけど、もっと食べたい、おかわりしたい、とまでは行かないでしょうね。おなかのすく授業、それが「深い学び」ではないでしょうか。

 


新校長室だより
 わかば第百九号
  平成二十九年九月十五日(金)神様のお言葉
 一昨日は、埼玉県小学校体育連盟支部長研究協議会に行って参りました。全県の支部長が集まるわけですが、ご来賓に、高橋澄男先生がいらっしゃいました。私が初任三年目頃に、もう、体育の世界では『神様』的な存在でした。北埼玉で小体連委嘱の研究授業を行ったときも、直接お話できないほどの神々しさを持ってらっしゃったのを記憶しています。
 その高橋先生が、ご挨拶の中で、「運動の得意な子と、苦手な子、どっちががんばっていると思いますか。」と私たちに問いかけたのです。「苦手な子ほど、がんばっているときもあるんですよ。できないからこそ、がんばってできるようになりたい。運動が得意な子は、はじめっから努力しないでスイスイとできちゃう。できない子の、運動が苦手な子の、頑張りを認めてあげるような、学級経営や学習指導でなければいけないのではないでしょうか。」
 小体連の支部長をやっている割に、運動が苦手な小学生時代を過ごした私にとって、涙が出そうなお話でした。運動に限らず、学習や勉強だってそうかも知れません。「いくらやっても覚えられないんだ。」って経験のある人の方が、人の気持ちが分かり、ひとりひとりの子どもを大切にできるのではないかとも思います。
 さらに、五つの大切なこととして、次のように述べられていました。
 「①子どもには活動の欲求がある。体育の運動量をしっかり確保すること。特に授業研究会などでは、先生方の説明や話が長い。②児童の承認の欲求を満たしてあげること。どの子もがんばっている。できなくてもがんばっている。頑張りを認めること。③向上の欲求を満たしてあげること。どの子もできるようになりたい。できるようにしてあげたい。少なくとも向上させてあげる。④集団所属の欲求を満たす。けがをして運動に参加できなくても、一生懸命チームの応援をし、勝ったときに一緒に喜ぶ。集団に属していた喜びを大切にする。⑤児童の知的な欲求を満たすこと。教師の声かけで、子どもが、なるほど、先生頭いい、って思わせなければならない。例えば、膝を伸ばせと言っても膝が伸びないのに、足のつま先をまっすぐにするんだよと教えたら、なるほど、膝も伸びる。先生頭いい、となる。」
 神様の言葉だなあ、としみじみと思ったので、もったいないので先生方にお伝えします。東井先生の言葉同様、参考というより、自分のものにしてください。

 

 


新校長室だより
 わかば第百八号
  平成二十九年九月十四日(木) 課題をつかませる
 昨日のU先生の図工の授業、感動しました。S君が、もう、ものすごくというか、真剣に取り組んでいたからです。それは、真剣に取り組まざるを得ないような仕掛けもあったのです。だって、画用紙は、自分が型どりして、ローラーで周りを美しく着色した、世界で一枚しかない用紙です。そこに、鉛筆ではなく、消すことのできないボールペンでの下書き。修正が効かない現実を目の当たりにすると、どうしても、躊躇してしまいます。そして、描く線は慎重にならざるを得ない。そこで、止まってしまって投げ出させるようなことにならなかったのは、『描きたい』という児童の構想を熟成させてあったからです。
 さらに、参観された先生方の多くは、児童自身の活動に入ってからでしたが、活動に入る前に、今日は何をするのか、という課題を子どもたちに明確に示してあったことがとても重要だと感じました。児童の想いを熟成させ、この時間には、その想いを具体化する。具体化の時間なのだということが、はっきり子どもたちが分かるような働きかけだったのです。
 算数や国語では、黒板に学習課題やその時間の学習のめあてを明記します。技能教科と言われる体育や、図工、音楽、家庭科でも、課題ははっきり伝えないと、児童にとっての学びは生まれませんし、個人的な営みに終わってしまいかねません。体育の授業の後に高まった技能は、課題やめあてに対応して評価しなければなりません。図工でも、できあがった作品はその課題に対してどうだったかを評価することになります。たまたま、美しく、誰からも「最高!」と言われたとしても、課題から逸脱していたとしたら、A評価にはならない。
 また、集団での学びの仕掛けとして、途中で、友だちの作品の良いところを採り入れる活動がありました。これも、ぜひ、積極的にまねをしてもらいたいところです。よく、「先生、○○ちゃんが私の××をまねしました。」と児童が訴えることがあります。昨日のような活動をいれることによって、「まねすることは良いこと」という意識に変えることができるのです。まねをされた(してもらえた)子は、「友だちから認めてもらった」ことになるし、まねをした方は「友だちから学んだ」ことになります。何しろ、「まなぶ」という和語は「まねぶ」という言葉から発しているのです。まねをされて嫌な子には、「あなたは、リスペクトされているんだよ」と話してもいいかも知れません。
 何はともあれ、図工の授業を見せていただいて、全ての教科に通じるものを感じました。その一つが「課題を児童にしっかりつかませる」ということです。そして、仕掛けの大切さです。U先生ありがとうございました。 

 


 新校長室だより
 わかば第百七号
  平成二十九年九月十三日(水)種を蒔いて、育てる
 来月は、校長・教頭の修正申告を提出することになっています。どの部分を修正するか、夏休み以来一学期を振り返ってまとめているところです。その反省にも関わると思いますが、スクールプランを提示したときに、先生方に追求して欲しい、児童の「分かる喜び、できた嬉しさ」というのをリニューアルしようと思っています。
 というのは、先生方が推進してくださっている「主体的・対話的で深い学び」に直結しようと思うからです。そうすると、前半の「分かる喜び」は、児童が、元々持つ好奇心や学習意欲をもとにした、個人的で純粋な「知的満足感」と考えます。これについては、今まで通り、大切にしていただきます。
 後半の「できた嬉しさ」は、「分かる喜びと、どう違うんですか」と度々質問を受け、私も明確に答えられないでいました。そこで、自分にも、皆さんにもわかりやすく、「できた楽しさ」に変更します。前半が個人的な喜びであるとすると、「楽しさ」は、個人だけで味わうのでは、その喜びは半減です。逆上がりだって、ようやくできたときに、みんなに見て欲しいし、回りのみんなも嬉しくなります。(もちろん、友だちができたことを喜ぶ学級経営、道徳心の育成も含みます。)みんなが笑顔になることで楽しさは倍増します。すなわち、後半を「楽しさ」という言葉にすることで、協働や共助につなげていくことができるのです。
 「学習や勉強は、苦しんでやるもの、つらいもの」という一般的な認識があるように思いますが、それでいいのでしょうか。小学校六年間、中学校三年間、高校までで十二年間、大学まで行けば、十六年間、つらいものを強いられるとすると、心の病気になってしまいます。そうではなく、分かって嬉しい、みんなでやって楽しい、実際にそういう経験を積み重ねているから、さらに学びたい、上級学校に行きたい、自分のスキルを社会のために高めたい、となるのではないでしょうか。
 分かる喜びも、できた楽しさも、自己肯定感を高めることができます。ありのままの自分を大切にできる人格形成につながります。成績や成果だけで評価される子育ては、うつや精神障害を生み出しかねません。もとより、平和で民主的な社会の形成者を育成するという教育基本法の理念から逸脱してしまうのです。
 よく、「良いところを見つけて褒めていく」という言い方を散見しますが、育てたり、指導したりする働きかけをし、つまり、種を蒔いて、育っているところを認め励ますということも必要でしょう。その種を蒔き、育てるところに、分かる喜び、できた楽しさがついてくるのです。

 


新校長室だより
 わかば第百六号
  平成二十九年九月十二日(火)冬の大三角
 昨日は晴天に恵まれ、五年生の稲刈りを実施することができました。一人もけがすることなく、Sさんや農協さんに教わったとおりに稲刈り鎌を上手に使って子どもたちが稲を刈りました。刈り終えた子どもたちに、U先生が、ヒガンバナが咲いているのを見せてくれていました。「曼珠沙華」という言葉も、子どもたちは初耳だったようです。「巾着田」と連想して言っている子もいました。よく田んぼの畦に植えることもあり、巾着田に映える写真を私もどこかで見たような気がします。ヒガンバナの球根には毒があるということで、モグラよけに畦に植えられたというのも聞いたことがあります。
 ただ、今年のヒガンバナは一週間早いようです。律儀に彼岸に入ると咲いていたのが、この夏の気温や湿度の影響なのかも知れません。雨が続きましたから、夏休みに自由研究に星空観察を予定していた児童はがっかりしていることでしょう。それでも、私は、八月の終わりに明け方三時頃、オリオン座が東の空に登ってくるのを確認することができました。縦に三つ並んだ三つ星は、冬の訪れを感じさせます。なにしろ、三つ星の左に輝いているのは、冬の大三角の一部をなして輝くベテルギウスです。
 夏休み中に、冬の象徴を眺めていると、「満点の星をいただく果てしない光の海を、豊かに流れてゆく風に心を開けば、煌めく星座の物語も聞こえてくる、夜の静寂の、なんと饒舌なことでしょうか。」というジェットストリームの台詞を思い出しちゃいます。
 ベテルギウスをネットで調べてみると、その大きさに驚かされました。仮に、ベテルギウスを太陽系の中心に(つまり太陽の位置にその中心が来るように)おいてみると、火星軌道を大きく越え、木星軌道の近くまで達するというほどです。すなわち、地球は簡単に飲み込まれてしまう大きさなのです。
 ただ、大きさの割に、質量は、太陽の二〇倍ほどということで、加速度的に小さくなってきているということです。このまま小さくなれば「冬の大三角」がなくなってしまう可能性もあるでしょうね。子どもの頃読んでいた「子供の科学」にも、北斗七星は百万年後は形がかなりゆがんでくるという話がのっていました。
 オリオンが見えて、時の流れは確実ですが、宇宙規模で考えると、何かとてもゆったりとしたものも感じます。それは、大きさだったり、時間の長さだったり、想像もつかないものでもあるからでしょう。

 

 


新校長室だより
 わかば第百五号
  平成二十九年九月十一日(月) キーボード入力
 みなさんは、PCの入力は、ローマ字だと思います。今時「ひらがな入力」の方はいないように思うのですが、違います?いたら失礼ごめんなさい。いいんです。慣れている方で結構です。
 以前なら、「中学、高校と英語の入力を考え、ローマ字入力で児童には指導してください」とお願いしていました。しかし、事情が変わってきています。若い新入社員達が、今、PCを持っていない世代になってきているのだそうです。皆、スマホかi-phone、タブレットで済ますことができるし、スマホの入力もフリック入力。QWERTY配列(クアーティーはいれつ、クワーティはいれつ、クウェルティはいれつ)を覚える必要もなくなってきているのです。さらに、音声での入力も可能ですので、フリックさえいらない。AIの能力もどんどん向上していますから、長文なども音声で十分になるかも知れません。学習指導案も、いくつかのキーワードの問い合わせに答えるだけでできあがるようなものになることも考えられます。そうすれば、苦労して、クワーティ配列を覚える必要がないのです。
 私の中学時代は、タイプライターが、流行っていて、「オリベッティ」ブランドを買ってもらいました。「真っ赤なバケツ」というヤツです。五十代後半しか知らないでしょうね。そのタイプライターに、薄っぺらな入力マニュアルが付いていて、あっという間に、タッチタイプ(日本語ではブラインドタイプ)を覚えちゃいました。「英単語を指から覚える」というタイプライター会社のCMも意欲を高めてくれたように記憶しています。(タイプライターそのものの存在も今の人は知らないでしょうね。)ですから、ポータブルワープロ(これも、知らないでしょう)の出始めは、早くQWERTY配列にならないか、待ち遠しく思っていました。なんと出始めは当時は五十音配列だったのです。
 あと、十年もすれば、PCはもっと廃れ、タブレットの次のデバイスが使われるようになるかも知れません。集積回路の集積度がさらに増し、AIの能力も向上し、より、人間に寄り添う「ヒューマンインターフェース」になります。もしかしたら、人間の脳で考えたことが、テキストとなって出力される。そんなことも可能になってくるようのでは?そんな時代や、その先の時代を子どもたちは生きて活躍するのです。

 


新校長室だより
 わかば第百四号
  平成二十九年九月八日(金)レスポンス
 昨日で、二学期始めの「あいさつ運動」が終わりました。町部局、PTA、ロータリークラブの皆さんが笑顔で子どもたちに朝の挨拶をしてくださいました。幸い、雨に邪魔されることなく、五日間連続で実施することができたということは、やはり、内井効果、坂田効果でしょうか。
 今回は、大人の方々に、「手を出せば、子どもたちがタッチをするように仕込んでありますから、ぜひ!」とお願いしちゃいました。強引なお願いでしたが、みなさん、快く引き受けてくれたように思います。
 しかし、内心は勇気のいることだったのではないかと推察します。というのも、私自身、四年前から、毎朝、いつも勇気を振り絞って手をさし出しているからです。せっかく、手を出しているのに、タッチしてくれなかったら、ショックだろうなぁ、とか、そんなときどんな顔をすればいいんだろう。など、ドキドキなんです。
 で、結果はどうだったか。大人の方々は一様に嬉しそうな顔をしてくださいました。月曜日は、私は東門で参加したのですが、子どもたちの集団に一通りハイタッチで挨拶をしたあとで、たまたま通りがかった散歩中の白髪のご夫人が「じゃあ、私にも。」とニコニコしながら手を出してくださいました。もちろん、私も笑顔でハイタッチ。
 自宅で、朝のゴミ出しなどする際、ご近所の方にお会いします。私は地元出身者ではないため、お顔もよくご存じないのですが、「おはようございます。涼しくなりましたね。」など、声をかけたり、かけていただいたりします。そうすると、お互いに、声に出して、挨拶を返します。「声をかけていただいたお礼」とも感じます。 ひところ、高小でも、交通当番の保護者の方から、「挨拶をしても、こどもたちから返ってこない。」というご意見をいただいたことがあります。これも、「せっかく声をかけたのに、反応がない。失礼だ。」という声に他ならないように思うのです。
 もしかしたら、一部の子どもたちは、声を出しているつもりなのだけれど、相手に届いていないことに気づかないのかもしれません。そこで、声だけではなく、指しだした手にタッチを要求する、という手段がハイタッチ挨拶なのです。
 「なんで、朝から、おじさんの手にタッチしてあげなきゃ行けないんだ。」と思う子もいるかも知れません。そういう子は、挨拶もしません。こちらの行為に対してレスポンスしないのです。中には、いつも、安全帽をかぶった頭で私の手にドンと頭突きをする子もいます。それはそれで、レスポンス。笑顔で認めています。挨拶を返したことと同じくらい、反応していると思うからです。何も反応しない子?いましたよ。いましたけど、今はいません。粘り勝ちです。みんな反応してくれます。

 


新校長室だより
 わかば第百三号
  平成二十九年九月七日(木)がん教育
 一昨日、「埼玉県がん教育指導者研修会」に行って参りました。小学校段階から「がん」についての教育が必要なのかという疑問ももちつつ、参加してきたので、皆さんにも参考になる部分を抜粋してお知らせします。
 日本人の二人に一人はがんになり、三人に一人はがんで亡くなると言われているそうです。日本人の死因第一位なのです。埼玉県でのがんによる死亡率は、他の疾病に比べ、断トツで上昇の一途をたどっているとのこと。年間約一万七千人もの方ががんで命を落としています。報道でも明らかになってきていますから、ご存じでしょうが、早期発見早期治療で寛解する確率が高まるのです。
 ところが、埼玉県のがん検診の受診率は全国平均に比べて低い状態です。「埼玉県がん対策推進計画」では、がん検診受診率を50%にすることが目標です。ということは、半分以上の方ががん検診を受けていないことになります。
 がん教育の目標は
 ①がんについて正しく理解することができるようにする。
 ②健康と命の大切さについて主体的に考えることができるようにする。
 このうち、小学校段階では②の「健康と命の大切さ」という部分で、発達段階を踏まえた指導が考えられます。ただ、それでも、少なくとも、がんという病気の概要については触れておかないと、適切な指導は難しくなるように思います。
 実際に「がん教育」の実施は「保健体育」や「特別活動」の中で、病気の予防の中で行われるでしょう。その際、次の点に配慮することが大切です。
【配慮が必要な事項】
①小児がんの当事者がいる場合
②家族にがん患者がいたり、それで亡くなっている家族がいる場合。
③生活習慣が主な原因とならないがんもあり、これらの患者が身近にいる場合。
④がんに限らず重病・難病等にかかったことのある児童生徒や、家族に該当患者がいたり、家族を亡くしたりしている児童がいる場合。
 医療に素人のわれわれが指導するわけですから、外部講師の支援等が大切になってきます。県はその支援をバックアップする仕組みを整え始めています。推進を考えてくださる方は、資料を提供いたしますので私のところまでお問い合わせください。 

 


新校長室だより
 わかば第百二号
  平成二十九年九月六日(水) 子どもたちの活躍
杉戸中学校男子・女子ソフトテニス部、全国大会を終えて…
第48回全国中学校ソフトテニス大会男子団体戦優勝(2連覇)!男子個人戦 幡谷・竹谷ペア優勝!堀内・桑山ペアベスト8!
女子団体戦ベスト8!女子個人戦 福原・竹谷ペアベスト16!

去る8月18日(金)、長崎県長崎市のかきどまり庭球場で行われた「第48回全国中学校ソフトテニス大会」において、杉戸町立杉戸中学校男子ソフトテニス部が団体戦で見事優勝(大会2連覇)、個人戦では幡谷・竹谷ペアが優勝、堀内・桑山ペアがベスト8。また、女子ソフトテニス部が団体戦でベスト8、個人戦では福原・竹谷ペアベスト16と健闘しました。
 
 右は、管理職メールに入ってきた内容です。全国大会ということです。言うなれば、「甲子園優勝」ぐらいの大金星でしょう。長崎と言えば、月曜日に五年二組で大型ディスプレイに映し出し、社会科の学習で扱ってくれていました。八月九日に原爆が投下された都市であることを知らない子がいるという話もしていただきました。
 選手そのものの素質が優れている、という言い方もできるのかも知れませんが、やはり、指導者あっての選手です。しかも、活躍し栄誉を受けるのは選手であり、指導者は縁の下の力持ち的存在です。それでも、活躍する子どもたちの笑顔が見たいから熱心に指導をする。杉中の校長先生始め、先生方の熱意に感激します。
 先日のサッカーワールドカップアジア予選でも、ハリルホジッチ監督は、選手を讃えていました。教員がいくらがんばっても、表舞台で脚光を浴びるのは、子どもたち。その活躍を見たいからこそ、縁の下で私たちはがんばるのです。小学校の教員にとってさらに、教え子が脚光を浴びるのは、数年後、十数年後。それでも、それは私たちにとっての喜びです。
 小さな若葉を育てている今は、遠い将来は見えないかも知れません。でも、その若葉が大きな幹を育て、実を結ぶ将来を想像しながら、一日一日を誠実に指導にあたる。私たちの仕事はまさに、未来の日本を作っていると行っても過言ではありません。後生畏るべしなのです。
 近い将来では、二千二十年、東京オリンピック。杉中出身者や高小出身者が活躍するかも知れません。それに、大学入試制度改革の元年にもなります。未来に活躍する子どもたちを育てる意識を忘れず、授業を通した人間形成を二学期もよろしくお願いいたします。

 


新校長室だより
 わかば第百一号
  平成二十九年九月五日(火)除草?種まき?
 夏休みの子どもたちの作品が、廊下の壁や教室のロッカーの上に飾られています。先生方が、先週金曜日の放課後にさっそく展示や掲示をしてくださったのですね。ありがとうございます。まだ、掲示していないクラスも、くるんと丸められた模造紙を、平らに上してくださっています。また、早くも、発表会をして、子どもたちをさらに活躍させてくださっているクラスもあります。絵日記にも朱で先生方の暖かな言葉が記されていて、忙しい中でも、子どもたちの思いを大切にしているお気持ちに触れることができました。重ね重ねありがとうございます。
  親子除草では、たくさんの保護者の方にお世話になり、とてもきれいになった校庭ですが、雨が続いたせいか、もう、オヒシバを筆頭に草生以外のところにも、草が生え始めています。だれも、種を蒔いたりしないのにです。おそらく、除草をしたときに種がこぼれたものだと思われます。そうなんです。私たちは、自然や農業のプロフェッショナルでないため、除草をしながら種まきをしてしまうのです。
 上農、中農、下農のうち、上農ならば、雑草の種ができる前に、草刈りを行うのでしょうね。つまり、早いうちに刈らないと、かえって手間が増えてしまう。ですから、今は、オヒシバの穂、つまり種ができはじめそうな部分が大きくなったものを中心に鎌で根から切り取っています。少しでもプロフェッショナルに近づきたい一心です。
 こうしたことは、昨日の研修で「先々を考えて・・・」という石橋先生の言葉と重なります。子どもたちのトラブルを指導するときも、「それで解決になるのかな。」「どうすれば、よりよい解決になりそうかな」と先のことを考えさせます。終わってしまったことは、どうにもなりませんからね。もちろん、暴力を振るった事実などは、謝罪しかありません。でも、それも、どうするか本人に考えさせます。なぜなら、私たちは裁判官ではないからです。

 


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 わかば第百号
  平成二十九年九月四日(月) 読書のすすめ(自分への)
 東井先生の一日一言。先日一日には「村を捨てる学力」だったのに、今日は「村を育てる学力」。しかも②です。そう、2日、3日にその間の「一日一言」があったのです。それを読めば繋がりが分かるのですが、あえて、ご自身で買って読まれるか、私に「貸して」と依頼してくださるかお任せします。
 というのは、先生方にも読書をおすすめしたいからです。みなさんは、夏休みにどのくらい読書をされたのでしょう。新聞では子どもたちの読書離れが三十一日の朝刊にも載っていました。ひと頃「子どもたちの理科離れ」が噂された頃、「教員の理科慣れ」の方が問題だと嘆いた方々も、実は、たくさんいたように思います。
 それと同じように、教員はどのくらい読書にいそしむのか、興味があります。子どもたちの語彙力を伸ばすには読書がいちばんのようです。しかし、われわれ自身が、その醍醐味を知らなかったり、時間がないという理由で取り組めなかったのでは、子どもたちに読書を奨励するときに、後ろめたくなってしまうのではないかという危惧があるのです。
 「担任が読んでいようがいまいが、子どもの指導とは別」と言い切れる方は、そう多くはないでしょう。みなさん、善良なる心をもち、子どもたちのために、日本の未来を見据えて教員になっているわけですから。
 そう言う私、校長はどうなのか。夏休みに購入した本はわずか一冊。電子版の「自分のうつを治した精神科医の方法」。そして、読み終えたのは、K教諭が貸してくれた一冊と、電子で購入した「風と共にゆとりぬ」だけ。他に、読み進み中というか、挫折気味なのが四冊ほどあります。
 たくさん時間があると思うと、つい、あれもこれも、と、集中が切れてしまいがちな、自分自身のだらしなさを今年の夏は見せつけられたような気分にもなります。逆に、仕事が集中しているときや、担任してた頃、成績処理で忙しいときほど、読んでいたことを、つくづく思い出します。おそらく、大学のときにならった「逃避規制」というネガティブな心理状態なのだと分かってはいますが、背水の陣ともいいます。時間がないときの読書ほど早く読めるものです。ぜひ、時間を見つけ出し、挫折気味を克服したいと思っています。

 


新校長室だより
 わかば第九十九号
  平成二十九年九月一日(金) 必要感から、やってみたい感へ・・・
 夏休みは、私にとってあっという間に終わり、ホッとしているところです。児童や保護者・そして先生方において、特段事故等の連絡がなかったことが何よりです。茨城県民である私は、先日のJアラートを受け取り、緊急地震速報とは異なるメロディーで朝から驚かされました。子どもたちの何人かは、「もしかしたら、ミサイルが落ちて、宿題の提出がなくなるかも知れない」と思ったかも知れません。自分が子どもだったらまちがいなく思っていました。高小の子は真面目だからそんなことは思わないでしょうけど。
 宿題は、提出しなければならない、課せられたものです。やらなければならないという思いが強すぎると「嫌なもの」になってしまう。「おもしろそう。自分を高める。一学期を振り返り、学習を盤石にできる。二学期の学習が楽しみになりそうだ。」というような、ポジティブに考える優等生だと、スラスラ意欲的にできるのでしょうね。
 昨年度の学校だよりに書きましたが、中学生時代、絵の課題には、自主的に楽しく取り組んだ私ですが、その他の教科の課題には積極的になった記憶がありません。八月三十一日に必死にため込んでいた山を泣きながら崩していたタイプです。
 先日、全国学テの結果が各新聞で発表され、学者さんが分析をしていました。一様におっしゃっていることは、過去問で対応してもダメ。「授業を変えなければ対応できない。」ということだったと思います。
 授業の指導案を考えるときに、児童の学習への「必要感」は初任の頃から話題になっていましたし、今でも変わらず大事そうだとは思います。しかし、「必要だから」と言う意識はそのまま学習への動機付けにつながるのでしょうか。学習が必要なのは、なんとなく児童には分かっていると思います。だから、重いランドセルを背負って登校してくるのです。しかしながら、分かっていてもなかなか実行できない、とか、必要なのは分かるのだけど、つい、手つかずのまま、ってのが平凡な人間らしさかと思います。
 では、学習や課題に取り組む意欲をささえるものは何でしょう。それは、「おもしろそうだな。」「やってみたいな。」「私にもできそうだな。」という「やってみたい感」なのではないかと思います。教材研究でそこをはずすと、普段の授業には生きてこない。「おもしろそう」でも、「私にはできっこない」と思わせては、もちろんダメ。いかに「やってみたい」と子どもたちに思わせるかが、主体的な学習を支えていくのです。 
新校長室だより
 わかば第九十八号
  平成二十九年七月二十日(木) お楽しみ会から・・・
 梅雨は昨日明けたようです。明日から夏休み。各クラスでは、昨日や一昨日、子どもたちの計画した「お楽しみ会」を開催していただきました。これも、学習のまとめが一段落した証拠でしょう。ありがとうございます。大人で言えば、「打ち上げ」みたいなものでしょう。
 しかし、大人と違うのは、子どもたちが一生懸命、学級目標の達成を目指し、よりよい人間関係をつくっていくために話し合った結果というところです。お互いの慰労というより、学習過程の一部なのです。つまり、各学年学級で「お楽しみ会」が計画されて実行されているということは、特別活動領域の年間指導計画に位置づけられた大切な学習をしているということなのです。
 「学習が一段落した」と書きましたが、正確には「教科の学習」が一段落で、領域の学習はまだ仕上げ段階ということになります。最後の最後まで、特別活動の熱心な先生方の指導に本当に頭が下がります。ありがとうございます。
 さて、特別活動については、新学習指導要領では、「これまでの目標を整理し,指導する上で重要な視点として「人間関係形成」,「社会参画」,「自己実現」の三つとして整理した。」とあります。さらに、内容について「小学校の学級活動に「(3)一人一人のキャリア形成と自己実現」を設け,キャリア教育の視点からの小・中・高等学校のつながりが明確になるようにした。」となっています。まさに、社会に生きて働く力を育成することが急務であることが感じられます。
 その人間関係形成と社会参画において無視できないのは、挨拶や、アイコンタクトではないかと思います。そして、ハンバーガーショップのスマイルゼロ円に見られるように、人間の表情や口調はノンバーバルコミュニケーションのうち最も大切なものの一つでもあります。
 低学年の登下校を見守ってくださっている応援団の方が、「さすが、校長先生には、元気な挨拶をするんですねぇ。」と私への子どもたちの挨拶を見ていておっしゃいました。「いやいや、私、子どもたちの前ではキャラをつくっているんですよ。」もともと、シャイで恥ずかしがりですから、素で行くと、表情のない、平坦なロボットのような「オハヨーゴザイマス」になってしまいます。子どもたちへ不快感を与えないためにも笑顔で、歌のお兄さん(?)のようなキャラを作り、笑顔で「お、元気!おはようございます!」
 私もバーガーショップでバイトをした経験上、キャリア教育ではとても大切なことであると思っています。

 

 


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 わかば第九十七号
  平成二十九年七月十九日(水) 感覚過敏
 自閉症と感覚過敏についての図書を読んでいます。自閉症の子の多くは、感覚が過敏で、たくさんの情報がいちどきに入ってしまうことにより、その処理に追われ混乱することになり、コミュニケーションをとることが難しくなるようです。特に視覚による情報は、目に見えたあらゆるものが入ってしまう。さらに、記憶に関しても、多くの人では、短期記憶としてすぐに忘れてしまうような小さな出来事も、長期記憶に蓄積されてしまうため、取るに足りないような出来事に執着してしまい、今現在の最善の行動がとれなかったり、他の人からの働きかけに無頓着であったりするということです。
 時間の観念が曖昧であるから、今なすべきことがわかりにくい。しかし、十年先までのカレンダーを瞬時に記憶するような子もいます。こうした力を使って、カレンダーや一日の予定表をもとに、生活を支援することが有効になることもあるとのことです。この辺りのことは、ADHDとも共通ですが、自閉症児は過去へのこだわりがある傾向が強く、逆にADHDの子は曖昧な未来へのこだわりが強い傾向があるとのことです。
 そんな内容の本を読みながら、自分や身近な回りの人はどうだろうかと考えてみます。自分自身は、どちらかというとADHDに近いものがあります。整理整頓が苦手で、回りが雑然としてきてしまいます。さらに、確証のもてない未来を夢見がち。
 自閉症であるか、ADHDであるかなんて、カチッとした線引きは難しいでしょう。おそらく、自閉傾向が強いとか弱いとか、誰でもそういった部分は持ち得るのではないかとも思います。さらに、場面によって自閉傾向が強くなったり、ADHD傾向に傾いたりということもあるのではないでしょうか。
 シャイな部分もある私自身、自閉傾向が強い時もあるという自覚もあります。それは、理科展の審査を担当したときです。デジカメなど写真画像が資料として多用され始めていた頃で、それに違和感を覚えてしまったのです。
 観察スケッチなら、記録として残したいものだけを描きます。しかし、写真には、必要のないものまで写り込むのです。必要もないのに、その研究を進めている本人の姿まで、手にした資料と共にニコッと笑って写っている。「こういう資料を私がつくりました。」とでも言いたげに。こうしたものは画像のノイズとしか言いようがありません。
 だから、理科展の審査基準として、写真よりもスケッチを重視した方が良いのではないか、と、その時に提言したのですが、あまり理解は得られなかったようです。絵の上手下手ではないのです。観察して驚いたことや知らせたいこと、残しておきたいことや状態だけを描くことで「何」に自分が注目しているのかをはっきりさせることにもつながります。
 そうした感覚には自閉でなくても過敏でありたいものだと思っています。

 


新校長室だより
 わかば第九十六号
  平成二十九年七月十八日(火) 個性と特性
 「個性を大切に」とはよく言われますが、言われる割りには大切にはされていないように思うのは私だけでしょうか。「あの子は乱暴だ」「この子は気持ちが優しい」などレッテル張りが個性と勘違いされがち。終いには、午後8時過ぎのファミリーレストランで走り回る子を「うちは子どもの個性を大切にする方針」と、容認するような家庭さえ出てきてしまう。
 共働きでやっとゆっくりとした時間をとることができたお家なのかも知れません。仕事で疲れ果て、逆に元気にファミレスを走り回るわが子に心を癒やされているのかも知れません。しかし、食事をしている他の客の迷惑を教えるという良い機会を逸していることは事実でしょう。決して、こうした自分勝手な子どもたちの振る舞いは「個性」とは呼びません。
 ある和食の料理店では、「小さなお子さん連れでのお食事はご遠慮ください。」との張り紙がしてありました。それを見た時、店主のいらだちにチラッと共感するものが私の胸をよぎりました。そして、「大人の店なんだろうなぁ。」とも思いましたが、料理の方は何となく味気なく感じたのも事実です。
 さらに、こんな張り紙をしているお店もありました。「小さなお子さんは騒いだり、賑やかにすることも当然です。気にすることなくご来店ください」正確ではありませんが趣旨はそんなニュアンスでした。こちらは誰でもウェルカム。しかしながら、逆にこういう張り紙の効果か、あまりに騒ぎすぎないように、親が子どもをやんわりといさめたり、落ち着かせたりしている。直球ではなく、変化球でストライクを取っている感じです。
 もしかしたら、こちらの店主は「障害とは、理解と支援の必要な個性」という言葉を知っているのではないかとさえ思いました。その「個性」を「特性」と置き換えれば、幼児期特有の子どもの特性も「理解と支援が必要」だと、その張り紙は表しているのです。
 誕生から、臨終までの人の一生。その中で最も大切に、尊重される時期は乳幼児期。欲しいとも言わないのに食事は与えられ、寒いとも言わないのに衣服を着ることができる。回りの大人は召使いのごとくせっせと世話を焼いてくれます。赤子の特性を丸ごと受け入れているからです。その特性を成長の段階を見極めながら、自立できるようにしていくことが「しつけ」
 発達段階の見極めの目を鋭く磨いていかないと、幼児期の万能感を残したまま、わがまま勝手な存在にしてしまう。社会的なルールに従うことのよさを味わわせられながら、私たち大人も育てられてきた。そのしつけの中で磨かれていくその子独自の長所こそが「個性」なのではないでしょうか。
 つまり「個性を大切に」というのは、その子の中に眠っている長所、発芽しかけている優れた点に気づき育てていくことであると考えます。

 


新校長室だより
 わかば第九十五号
  平成二十九年七月十四日(金)  水慣れ
 昨日も、一年生からお誘いがあり、水泳学習に参加させていただきました。といっても、ホースの水でプールサイドを冷ましながら、子どもたちにジェット水流でバシバシかけ、マシンガンごっこをやっていただけですけど。子どもたちは私の放水に、ぼくも、私もと寄ってくるんです。水に顔をつけられない子もしつこく顔にかけられても、挑戦的な態度さえ見せる。きっと、水が怖いんじゃない。目と耳が同時に水中に入ってしまう感覚を想像できないだけなのかもしれません。
 連日の猛暑で、夕方のテレビのニュースでは、噴水のある公園で水遊びをする幼児の姿が映し出されたりします。私たち人間やほ乳類は、母親の胎内にいるときに羊水という海の中で、人間なら十ヶ月間生活します。だから、新生児は水を怖がらないのだそうです。ゼロ歳児の水泳教室などもあり、なるほどと思います。
 さらに、栄養も酸素も体内を流れる液体、水分があるから、体中に補給することができています。だから、口から採り入れたデンプンは、水にとける形に消化されるわけです。ほ乳類は体の中に海を取り込んだ存在といわれることもあります。血液の成分と海水の成分は似たところがあるのだそうです。
 そうです、そもそも、生物は、海中で生まれたのです。水中から出て生活できるように、苦労して進化してきたのです。水の中はふるさとと言ってもいいでしょう。それは、植物でも同じです。むしろ、植物の方が先でした。酸化水素の液体の中で、バクテリアが増殖し天下を取っていた。それを殺す最強の消毒薬を放ち天下を奪ったのは植物です。その薬とは「酸素」です。この酸素があるからこそ、動物はそれを燃やしながら生命をつないできたのです。
 さらに、窒素と二酸化炭素しかなかった地球上の大気の中にも酸素を放出してくれたおかげで、陸上に上がる生き物が生まれてきた。しかし、その進化の過程の中で、陸上でしか生活できない体になってしまった。環境に適応することは、逆に今までの生活環境を捨て去ることにもなったのです。
 こんな、しちめんどくさい話をしたからといって、顔を水につけられるようになるわけではありません。でも、何かきっかけがあれば、水をまた味方にして、泳いだり、潜ったりできるようにもなるのではないかと思うのです。
 逆に、何かのきっかけで恐怖心が芽生えて、それを引きずって「私は水が苦手」と思い込んでいるだけなのだと思うのです。お風呂に怖がって入れない子でない限り、また、水を怖がって、顔を洗えない子でない限り、潜れるようになります。泳げるようになります。ホースの水掛けごっこよりも、もっともっと、水で楽しめるようになると信じて、工夫していきたいと思います。


 

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 わかば第九十四号
  平成二十九年七月十三日(木) 教科等横断的な指導
 ほとんど雨が降らないのに、校庭のトラックには雑草が生えています。誰も種を蒔かないのに、オヒシバや、シロツメクサなどどこからか種が運ばれてきているのです。猛暑の中、山野先生がガリガリと除草してくれています。私もちょっぴり参加しましたが、十分もすると、シャツが汗でぐっしょりになってしまい。地面にぽたり、ぽたりと汗が落ちていきます。刈られなければ、その水分を草たちは吸っているかも知れません。
 カラカラに乾燥して見える地面ですが、砂漠でのサバイバル術では、そんな土の中の水分を取り出す方法があります。広めの穴を掘り、真ん中にコップを置く。そして、その穴全体をビニルシートで覆い、コップのある辺りに小石を置く。すると、地面から蒸発した水が、シートで冷やされ、水滴となり、シートを伝って、コップに集まるのです。4年生の理科の実験で行うこともあります。
 「ああ、だから、雑草は水分がないように見えて、わずかな水を手に入れることができているのだ」と、実感することができます。砂漠の生き物の中には、夜露を上手に採り入れて生きているものもいます。さらに、「生命」の神秘や「生きる」ことの不思議さも考えることができるでしょう。新学習指導要領の総則には「道徳教育を進めるに当たっては、人間尊重の精神と生命に対する畏敬の念を家庭、学校、その他社会における具体的な生活の中に生かし、・・・」とあります。
 草取りのような清掃活動の中にさえ、教科横断的な視点を持つこともできます。しかし、単に「草を取る」という見方しかできていないと、それだけになってしまいます。六年生の理科での「思考力、判断力、表現力」は「多面的な見方」が要求されます。除草を多面的に見れば、環境問題にまで広げることもできますし、社会科での上農中農下農へも持って行けます。「下農は雑草をつくる」のです。だから、雑草が生えていてはいけない校庭にはびこらせてしまっているような学校は「下農」の部類になってしまいます。まぁ農家じゃないから当たり前ですけどね。
 そして、それらを作文などのレポートにまとめさせる。自分の言葉で活動をまとめさせることによって、文章を書く力は徐々に育っていきます。始めから良い文章、まとまりのある文章は期待してはいけません。校長でさえ、こんなまとまりのない文章しか書けないのですから。
 アクティブラーニングのような指導もしなければいけないし、英語も入ってくるから大変、と思われるかも知れません。しかし、文科省は「小・中学校においては、これまでと全く異なる指導方法を導入しなければならないと浮き足立つ必要はなく、これまでの教育実践の蓄積を若手教員にもしっかり引き継ぎつつ、授業を工夫・改善する必要」があるといっています。「深い学び」は教科横断的な発想がヒントになるのではないかと思います。


新校長室だより
 わかば第九十三号
  平成二十九年七月十二日(水) 火・炎について考える
 新しい学習指導要領が公示され、各教科の解説もインターネット上にアップされています。今回の教育課程説明会(研究協議会ではない)では、それらをプリントアウトしたり、pdfにとってタブレットで持参することになるのでしょうか。出張文書をよくご確認ください。
 理科では、34年生で「関係づけ」56年生で「条件をそろえる」という見方考え方が、3年生「比較する」4年生で「関係づける」5年生で「条件制御」6年生で「多面的に考える」というものに変わるようです。
 ところで、「もののあたたまり方と体積」を学習する4年生は、100度に熱した水から水蒸気の泡が出る様子を観察し、熱と、水の状態変化や体積の変化を学習します。そこで使われるのは多くはアルコールランプ。マッチの使い方もきっとまだ学習するのでしょうが、年々、子どもたちがこの小さな炎さえも生活の中で触れることが難しくなっています。キッチンのレンジはIHだったり、チンするだけで食事ができたりする現代です。
 そうなってくると炎を怖れる野生動物のように、子どもたちも炎を怖れるようになってしまいます。原始、人類は火を手に入れることによって、生活を改善してきました。それが、電気や電子的な見えない熱に代わり、さらに生活を豊かにしている。反面、本物の炎からは遠ざかる生活になりつつあります。
 イギリスでは、20年前に、環境への対応から、キャンプでの直火も禁止になっているところもあると聞いたことがあります。まだ、日本では、5年生が林間学校でキャンプファイヤーを行うことができています。炎をみんなで見つめ、火がもたらしてくれた恩恵をしみじみと考えることができたらすてきだなぁと思います。
 さらに、また、炎や熱は怖いものでもあることを学ぶ必要もあります。家庭科や、防災教育の観点からです。恐ろしいものだけど、使いこなすことによって生活を豊かにするものでもあるのです。そうした考え方は、刃物や原子力を考えることにも通じます。

 

 
  【理科学習指導要領解説からの抜粋です】
 今回の改訂で,理科の目標である「自然の事物・現象についての問題を科学的に解決するために必要な資質・能力」を育成することを実現するために,追加,移行及び中学校への移行を行った主な内容は,以下のとおり。
○ 追加した内容
・音の伝わり方と大小(第3学年)
・雨水の行方と地面の様子(第4学年)
・人と環境(第6学年)
○ 学年間で移行した内容
・光電池の働き〔第6学年(第4学年より移行)〕
・水中の小さな生物〔第6学年(第5学年より移行)〕
○ 中学校へ移行した内容
・電熱線の発熱(第6学年) 


新校長室だより
 わかば第九十二号
  平成二十九年七月十一日(火) 防災
 九州地方の大雨による災害の報道に連日胸を痛める毎日です。土石流だけでなく、植林した40年ものの杉が山ほど流れてしまっている写真を見ると、どうやって片付けていくのか途方に暮れてしまいます。
 そんな折り、先週の土曜日、住まいのある地区で地域防災説明会が開かれ、猛暑の中出席してきました。今年度は、我が家は町内会の班長でもあるのです。市役所の職員も四名来ており、九州をおそった線状降水帯もどこで降ってもおかしくないということを始め、片田敏孝教授のDVD視聴などから考えさせられることがたくさんありました。
 避難指示や避難勧告があっても、異常な事態に直面していながら、「大したことにはならないに違いない」「自分は大丈夫だろう」と思い込み、危険や脅威を軽視してしまう「正常化の偏見」という心理が働くなど興味深くお話を聞きました。オオカミ少年の逸話も、嘘つきの少年の話ではなく、防災訓練を繰り返してくれた少年がいたのに「正常化の偏見」で慣れっこになってしまった愚かな村人達の話に思えてきました。
 杉戸や春日部は首都圏外郭放水路のある龍Q館がありますが、万里の長城のような防潮堤さえ乗り越えた釜石の教訓もあります。「自分の命は自分で守る」ための、児童主体の避難訓練を本校でも実施する必要性を感じないではいられません。実施しましょう。
 高学年は高学年なりに低中学年の補助をするなど、できることもあります。大人が指示しないと避難できないのは、今や、これだけ「主体的な学び」が求められているのに、学びのための学びになってしまいます。避難できる子、さらに避難誘導できる子、自分の命を自分で守れる子にしていきましょう。
 例えば、どこに避難するかも教えない。人数確認ができるようにさせたいのですが、それもあらかじめ教えれば楽ですけど、子どもたちに考えさせる。最善の方法を子どもたち自身に考えさせるのです。うまくいかなかったら、それもどう改善するか子どもたち自身に考えさせる。最善の行動ができる子に育てることによって、登校途中、帰宅後といった学校外での緊急事態に対処できるようになるのではないでしょうか。
 緊急時は、われわれ教員の行動もきっと物理的に制限されかねません。教員がいなかったから、安全を確保できなかったでは済まされないことです。児童主体の避難訓練を是非実施していきましょう。「訓練です。訓練です。2階、家庭科室で火事が起こっています。すぐに避難しなさい。」という形でしょうか。「先生の指示に従って」を抜くわけです。事後も指導ではなく、子どもたちに考えさせる。そんな形ではどうでしょう。

 


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 わかば第九十一号
  平成二十九年七月十日(月) 人権教育
 金曜日、町の校長研究協議会のため、杉戸第二小学校に向かっている時です。清地二丁目の交差点を二小方面に曲がったら、国道の手前で白杖をもった男性が車道を歩いている。私の車はゆっくりと走っていたので、遠くに見えたのですが、反対車線の歩道から、ご婦人が出てきて、手を引いて、歩道に誘導してくださっていました。近づくと、横断歩道でした。その後、ご婦人は、一回、振り返って心配そうな視線を送ってましたが国道の方に歩いてらっしゃったので、身内や知り合いの方ではなさそう。四号線の信号待ちでミラーで見るとやはり視力障害の方のようでした。
 こうした心遣いが具体的に見られる杉戸町は素敵です。先日お話ししたように、杉戸町は今年度から、文部科学省、埼玉県教育委員会から、「人権教育総合推進事業」の委嘱を受けました。(中略)
 さらに、授業研究も、教科の校内研修等の授業に、人権教育上の配慮や人権教育上の視点などを盛り込む形でいいということです。教育長の話では、人権教育と銘打たなくても、授業そのものが人権に配慮するもの。当然です。本校の今年度の重点「授業を通した人格形成」とも通じるところがあります。友だちの考えを尊重したり、共に協力して課題を解決するなど、私たちは、人権感覚を授業中に養っているのです。つまり、普段の授業を、人権教育にスポットを当てて見直すということでもあります。
 道徳が教科化されて英語も入ってきて時数が増える。そんな大変な時に、さらに先生方に大変なことをお願いするのは忍びないという、教育長のお気持ちだと思います。有り難いことです。
 金曜日は午後、学校栄養士の先生をお呼びして、六年生が食育の授業を受けました。ワークを用意してくださって2~3名で共同して回答を考える工夫もしてくれました。こういう部分も「人権教育」の視点がかくれています。清涼飲料を糖分の量で並べ替える問題は、どのグループも正解しなかったものの、友だち同士で一生懸命、ああじゃないか、こうじゃないかと話し合ったからこそ、印象深く残ったのではないかと思います。
 「おやつは食べ過ぎない程度に、SOSに気をつけて、食べましょう。給食は栄養のバランスのとれた食事です。大人になると食べられないので、残さないように食べてください」と栄養士の先生。「いや、教員になれば、食べられますよ。」と私。もしかしたら、「将来の夢は教員、理由は給食が食べられるから」って子がいてもいいかな。
 人権の話題から逸れました。

 

 


新校長室だより
 わかば第九十号
  平成二十九年七月七日(金) 成長の記録
 おおぞら学級前の花壇のヒマワリが咲き始めました。あんな小さなタネから大きな子どもたちの背の高さよりも大きく育っています。夏と言えばヒマワリ。お日様を追いかけるから、向日葵とも書きます。英語でもサンフラワー。
 5年生は、教室の水槽のメダカをじっと見つめている。動くものに興味をもってみるというのはとても大切なこと。子どもの本能でもあるでしょう。私も5年生を担任していた時の放課後、メダカを眺めて癒やされたことを思い出します。
 1年生はアサガオ。3年生は職員室前でホウセンカを育てています。2年生はベランダと畑で野菜ですね。5年生は畑でチームで野菜を育てています。1年生も3年生も時として、しゃがんだまま、じっと自分の育てている鉢植えを見つめていることがあります。5年生も含め、じっと見つめながら、昨日、安東指導主事から指導のあった「対話」をしているのかも知れません。子どもたちの頭の中では、「不思議だなぁ」とか「何色の花が咲くかな」「えさを食べているかな」などいろいろなことを考えているのでしょう。
 その感じたこと、考えたことを、そのままにしないで、書くことによって可視化し、残していく。それが、「観察記録」ということになるのですね。文字に残しておくことによって時間がたっても、自分がそこに残っていく。時間を切り取ることでもあります。そうすると、日付や、時刻も必要になってきます。
 また、中学年になると、「関係づけ」が思考する上で大切になりますから、その日の天気や気温も記録することになる。文字情報に残しながら、「気温が高くなっているから、ホウセンカもぐんぐん伸びるのだな」とさらに思考を深めていく。
 そして、水やりの大切さに気づき、水をやるという働きかけもする。もしかしたら、肥料という働きかけも必要と気づくかも知れません。
 しゃがんで自分の鉢を眺めている児童を見て、私たちも「あの子、何を考えているのだろう。」と考えます。「水やりがこのぐらいでいいのかな」「なんで○○ちゃんのは花が咲いたのに、ぼくのは咲かないんだろう」こうした想像力が、児童を理解しようとする姿勢だと思います。
 昨日の学校評価委員の教室訪問では、学期末のテストをやっているクラスもありました。先生方は「この子達はどのくらい身につけてくれたかな。」と期待と心配が入り交じった複雑な気持ちでのテストでしょう。でも、まだ、2学期もあります。身につけてなかったら挽回すればいい。
 通知表の作成もありがとうございます。夏休みを控えて、子どもたちの成長がヒマワリのように大きく感じられる通知表にしていきたいですよね。

 

 


新校長室だより
 わかば第八十九号
  平成二十九年七月六日(木)  可視化
 模擬授業、先行授業と先生方みんなで作り上げている学習指導。本当にありがとうございます。その大切な研究授業なのに、校長、教頭とも出張で失礼いたしました。先生方の研究協議や、指導の安東先生のお話から、子どもたちががんばった様子がうかがえました。もちろん、その頑張りを仕掛けた大地先生の様子も目に浮かびます。付箋を使った話し合いは、まさに、今日6日の東井先生の一日一言の言葉ですね。自分を客観化し深い学びにつなげていくということだと改めて思いました。
 振り返りの言葉を書かせても、初めのうちは、内容の薄い、「おもしろかった」ぐらいしか書けない子でも、朱で「何が?」とか「どんなところかな?」など、突っ込みを入れ続けていくことで、その子なりの理解や、分かったこと、分かって嬉しかったこと、友だちの考えの良いところなど、書くことができるようになっていきます。それが、「育てる」ということです。
 実は8日の一日一言の題名は、「書くつらさ」になっています。8日は土曜日なのでこのコラムに載せられないのですが、あえて記しておきます。
 『書くつらさ』
 「書くということは、自分を責めていくことだからつらいのはあたりまえ。」
 ほんとに、文章を書いているとこのことを実感します。こんな、みんなが読んでくれるかどうか分からないコラムを毎日書いている。ホントに自分を責めている実感です。でも、自分で自分に課したことだからしょうがありませんし、やれと言われてやっていることではないので、まだ、続けられるのかも知れません。
 それを、「学習のまとめだからちゃんとした文章で書きましょう。」と促したら、凍り付く子もいるのです。だから、少しずつ育てていけばいい。始めから期待通りの文章でなくていいのです。少しずつ少しずつ認めながら、量や内容が充実するように仕向けていく。量も多すぎない方が読む方も書く方も楽です。楽は楽しさにつながります。
 どんなことでも、始めは、時間や方法がそろわなかったりとリスクはあります。新しいこと、今までやっていなかったことをやるというのは勇気もいります。また、今までやっていたことをやめることにも同じように心の負担もあります。
 しかし、そのリスクを乗り越える先に、目指すものがぼんやりとでも見えているのなら、歩みを止めるのはもったいない。子どもたちの考えを可視化する試みとしての付箋紙の活用。ご自分の学級でも試すことで、その大変さが分かったり、もっとうまく使う方法を見つけたりもできます。子どもたちの考えを見えるようにする試みに、立ち止まらないように進んでいきましょう。

 


新校長室だより
 わかば第八十八号
  平成二十九年七月五日(水) 概数
 「たかお君は、どんぶり5杯分のご飯を食べるのに何分かかるでしょう。」こんな問題は出るわけがありません。たかお君の食物摂取能力も設定してありませんし、どんぶり1杯のご飯の量も設定してありません。しかし、この文章を読んで、「自分にはとても食べられないなぁ。」と思える子は算数の力はある程度安心できます。「量」を自分なりにイメージできているからです。おおざっぱでもいいので、大体の量を頭でイメージできる子は、算数の力をある程度持っているのではないかと思うのです。そうです概数です。
 しかし、概数は多くの子が苦手を感じやすい部分のような気がします。(もちろん、経験上ですので、私の指導がまずかっただけなのかも知れません。)ところが、私たちの生活の中で使う数字の殆どは概数なのです。体重も日々刻々と変わり、グラム単位や、ミリグラム単位、あるいはマイクログラム単位まで正確に出そうとしても、とてもじゃないけど出せない。身長だって、朝がいちばん大きくて、夕方は縮んでしまうそうです。概数なんです。
 お金だって、ものの代金は正確に表示されていますが、消費税が入ってくると、外税タイプの商品は、「これぐらいかな」と見積もって、財布と相談することになる。そうするとざっくりと大目の金額で見積もることになります。
 もっと言うと円周率だって、ご存じのように無理数ですから、3.14よりさらに無限に続きます。ネットからコピーすると、3.1415926535・・・・と千桁まで載っていました。それでもおしまいではない。超越数とも言うそうです。私の理解も超越してます。
 つまり、生活の上では「概数」を使うのです。概数による処理は、算数的処理のよさの一つとも言えるでしょう。杉戸町の人口は、6月1日現在では、4万5千5百9十3人ですが、どこまで正確な数字が必要かという問題があります。約4万5千6百人でいいと思いますし、場合によっては約4万5千人でもいいでしょう。それを、四捨五入の考えをていねいに使って、約4万6千人でもいいのだと思います。一人あたりの予算が絡むことであれば大目の見積もり、そうでなければざっくりと4万5千人。大切なのは、そのあたりの判断の仕方ではないでしょうか。その必要感がないと、機械的な知識や技能の習得になってしまいます。「なぜ、百の位までの概数にしなければならないの?」「なぜ、小数第2位を四捨五入しなければならないのか」その辺りに、「深い学び」への秘密があるように思います。
 3年生のS君、算数の問題で、間違いの考え方をしたわけを、間違えた人の立場で発表していました。お見事! 

 


新校長室だより
 わかば第八十七号
  平成二十九年七月四日(火) 算数二題
 ネットで話題になっているという算数関係の話題を二つ。一つは文章問題です。下にコピー(図略)です。正解は、何だと思いますか?実は、かけ算九九を習っていないのに、足し算の式で書かなかったからだそうです。それにしても、「なにこれ?」はないですよねぇ。習っていない九九をもう身につけて、考え方も合っているのに、私なら、「おぉ、すごい!もう、九九が分かっているんですね!」ぐらい書いちゃうけどなぁ。習っていないと式に書いちゃ行けないのでしょうか。先生方はどう思います?
 そういえば、以前、読売新聞で話題になった投書に「自分の子どもの名前は習っていない漢字だからとひらがなで書かせる教師」というのがありました。その先生は町で「夢庵」とか「鮨」などの看板があっても、「読んじゃダメ」というのでしょうか。「書き」に関しては「筆順を教えていないから」という理由のようですが、だったら、教えてあげればいいじゃないですか。文集の作文募集で、「その学年までに習った漢字以外のものは使わないこと」というレギュレーションのあったものもありました。これは、もう学習に対する制限としかいいようがありません。氏名への使用制限に至っては人権問題になりかねません。
 続いて二つ目、今度は、おもしろい教え方です。引き算の大嫌いな児童の母親が考え出した教え方。これもネットで配信されていました。(図略)三つの数の引き算で、工夫して上手に指導しています。子どもの好きなゲーム感覚を採り入れて、とてもわかりやすい。
  これは、「引き算が苦手」という意識を重ね合わせている点で、「引き算は引かれる数をやっつける」といいう考え方です。足し算やかけ算には結合法則が成り立つのですが、引き算や割り算には成り立たないので、苦手意識につながっている部分もあるのではないでしょうか。
 さらに、一の位に着目して、たして十になることもうまく活用しています。計算の工夫の問題の所なのかも知れません。インドの算数に似ている部分です。

 


新校長室だより
 わかば第八十六号
  平成二十九年七月三日(月)

  健全育成
 先週金曜午後は、杉戸町青少年健全育成会総会とその後、各中学校ブロックごとに分かれて、健全育成協議会が行われました。開会の挨拶の中で杉戸警察署長さんから、近年、青少年の補導数が減少していることや、検挙数もとても下がっていることなど、子どもたちが現在健全に育成されている傾向のお話がありました。児童数、生徒数が減っていることもあるでしょうが、若者の喫煙離れやアルコール離れが報道されたように、世の中全体で、子どもたちの文化が変わってきているように思います。その証拠にスマホなどネットいじめや、個人情報保護関係のトラブルが増えているということです。表には出てこないけど、水面下で蝕まれている部分がないか、私たちは警戒を続けなければいけません。
 杉中校区の中での情報交換では、あいさつ、自転車のヘルメット着用、不審者の情報の信憑性などの話が出ました。最近は、嶋津さんや高橋先生、私に対しても、昌平中学高校生も進んで朝の挨拶の声をかけてくれる子が出てきています。取手市の事件から、挨拶に対して、後ろ向きになるのではなく、さらに向上するように取り組みたいものです。
 また、スポーツ少年団の加入率が1割程度になってしまっているというお話が少年野球の代表からありました。スポーツを通した子どもたちの健全育成を目指すためにも、ぜひ、加入率をせめて三割にはしたいということでした。県大会二位になったバレーのウエストジュニアも高小は川島さんだけです。野球や、サッカーは複数の子が入っていますが、土日に保護者がかり出されるという大変さもあるのでしょうか。難しいものも感じます。これも、児童数が減ってきていることと無関係ではないでしょう。
 その他に、区長さん、民生委員さん、各幼稚園長さん、各PTAの代表の方々からお話をいただき、本当に多くの方々が子どもたちの健全育成に努めてくださっているということを実感しました。
 その後の、各中学校区の発表の中で、東中校区では、泉小では、全児童に、ヘルメットを無料で配布したというのが気になりました。自分で持っている子もいるわけだし、どこからその費用が出ているのかも聞いてみたいと思っています。
 その後、夕方七時からは、杉中校区PTA懇親会に参加させていただきました。とても賑やかな会なので、個々にどんなお話かは分かりませんが、私のテーブルでは、修学旅行や林間学校のお話で盛り上がりました。各校自己紹介の場面では、先日の教頭先生のネタを持ち出し、会場が笑いの渦に。こうやって笑顔で集まって、懇親会ができるというのは、子どもたちの健全育成に無くてはならないものだと思っています。


新校長室だより
 わかば第八十五号
  平成二十九年六月三十日(金)

   もうすぐ雨に
 チリンと音がすると、カエルや猫の言葉が聞こえる。三年生の国語の教材「もうすぐ雨に」。フィクションというより、ファンタジーですね。ペットを飼っている人は、彼らと何かしら会話をしているはず。えさをやるときに「こぼすなよ」とか、「残さず食べなよ」。鳴き声が気に障る時は「ちょっと、何?静かにしてよ。えさ?さっきやったでしょ」。言葉の意味は分からなくても、きっとペットたちは、飼い主の口調や語気から、気持ちを察知して反応してくれます。
 犬語を翻訳してくれる「バウリンガル」猫語を翻訳してくれる「ニャウリンガル」という玩具もあるようです。あくまでも「玩具」精密機械ではありません。ネットで検索したら、Androidのアプリもあるとのこと、早速、うちの老猫で試してみたいと思います。
 その仕組みを調べてみると、文系にはわかりにくい「フーリエ変換」で、音を解析しているようです。難しいところは不明ですが、「意味」を読み取っているわけではなさそう。やはり、吠えたり泣いたりする時の様子を解析しているのでしょう。
 児童の失敗に対して叱責する時も、「何やってんだよ!」と荒い言葉で言っても、「何をやっているんですか!」と敬体で話しても、怒っている声の調子や顔の表情で、こちら側の気持ちを伝えることができます。荒っぽい言葉だと無駄に後から誤解を与えるようなことになりかねません。
 児童が家に帰ってから、「なんて言って叱られたの?」と保護者に聞かれて「○○先生は、「てめぇら、何やってやがんだ!」って言ってた。」と答えたとします。それで、スルーの家庭もあるかも知れません。「怒られたあなたが悪い。だから、そんな、荒い言葉でしかられるんだ」となればいいでしょうが、「荒い言葉遣い」にピンポイントでマイナスの反応をもたれてしまうこともあります。
 ただ、児童が「○○先生のおかげで分かった。」「○○先生の授業は楽しい」と普段から家庭で話していれば、そんなことにはなりません。それが、チリンチリンとなる鈴の音になるのではないかと思います。保護者はきっと、「あなたのことを考えて怒ってくれたんだよ、ありがたいねぇ」とフォローしてくれるのではないかと思います。逆に指導力がつくまでは、荒い言葉は厳禁です。


新校長室だより
 わかば第八十四号
  平成二十九年六月二十九日(木)

  おもちゃ
 自習中キャップを立てて並べて遊んでいる子に「学校におもちゃってもってきていいの?」と聞きました。すると、わりとはっきりした声で「これは、鉛筆のキャップです。」おお、来ましたね。「でも、鉛筆にかぶせてないで、遊んでましたよねぇ。」「・・・・・。」「違うんですか?」「・・・・・」小さく首を横に振りました。「遊んでたってっことは、おもちゃにしていたということですよねぇ。」小さく首を縦に振ります。「今何をしなければいけないか分かりますか?」また、首を縦に。「分かっているのなら、さっさとやりなさい。こんどまた、遊んでいたら、おもちゃは取り上げます。」
 「おもちゃ」という言葉は、もともと「もてあそび」から来ているようです。子どもは知育の発達のためにも、小さなうちからいろいろな造形物で遊ぶ必要もあります。形の認識や、動きの認識など、高校で学ぶの物理現象は、三歳くらいまでに経験するのだそうです。テーブルにこぼれたミルクが、表面張力でドーム型になるのも発見するし、二つのドームを近づけると合体することも見つけます。おもちゃや子どもの回りには学んだり経験したりする必要のあるものがたくさんあります。
 機械ノック式のボールペンなど、高学年でも、その仕組みを探ろうと授業中に分解することさえあります。そのような好奇心は大切なものではありますが、授業に関し、ボールペン以下の興味しかもたせられなかった悔しさはあるものの、やはり、授業規律はしつけなければならない。「それって、今、やらなければいけないことですか?」「はい。」「ど、どうして?」「赤がノックしてもうまく出ないからです。」「で、分かったの?」「いいえ。」「修理は家でやってください。」「でも、赤が・・」「赤はお隣さんに借りてください。借りますよ、いいですか?」
 授業後、「どう、直りそうですか?」「うーん難しそうです。」「では、家でがんばって直してください。どうしても直らないならお家の人と相談して、新しいのにするか赤鉛筆にしてくださいね。」
 ザーザー雨が降った先日、大雨の中、子どもたちは低学年も、高学年も、下校で外に出るのを楽しんでいます。「濡れて、冷たくなって嫌だなぁ」と思っているのはホンの一握り。水たまりに入ってみたり、傘をおちょこにしてみたり、天然のシャワーで遊んでいます。子どもの本性を大切にしつつ、安全を確保しなければなりません。


新校長室だより
 わかば第八十三号
  平成二十九年六月二十八日(水)

   育てる・育む
 昨日は、三年一組での算数の事前授業ありがとうございました。前日の模擬授業の先生方の討議も、子どもたちの思考を考えながら熱心にやっていただきありがとうございました。どちらも全部は見ていなかったので申し訳ありません。児童のノートのマス目に合わせた、問題文など丁寧に指導してくださっていて有り難いと思います。さらに、子どもたちと課題を共有する工夫も見られました。前日の先生方による模擬授業が生きていました。
 県の学力調査の分析では、忍耐力などの非認知的能力と学力との相関関係があるとのことでした。複数の教員が参観しているという状況の中もあるかも知れませんが、子どもたちがきちんと席について学習を進めている様子は、確実に学力に結びついていくのではないかと思います。 さらに、友だちに自分の考えを聞いてもらったり、友だちの考えを認めていくなど、そうして自己肯定感を育んでいくことは、学力を向上させる以上にとても大切なことではないかと思います。まさに今年度の重点「授業を通した人格形成」を実践していただきました。学力を向上させることも、人格形成をすることも、一朝一夕にはできません。少しずつでも、毎日意識して、育てていくことが重要です。
 あ、そうそう、一朝一夕は「いっちょういっせき」ですよ。「いっちょういちゆう」ではありません。「できない」という否定語と合わせて使います。「ローマは一日にしてならず」もだいたい同じ意味かな。
 「やる気スイッチを入れてやる」のような、簡単な合い言葉で「やる気」が出るなら、学力なんか簡単に向上します。そもそも、「やる気スイッチ」なるものが有るのかどうか。私たちはロボットではないのですし、東洋医学でやる気を上げるツボのようなものも聞いたことがありません。「やる気」は育てるものなのです。
 そのためには「できた」「やった」という小さな達成感を積み重ねさせることです。大きな成就感の方が大事ではないかと思われがちですが、達成感が大きすぎると、それで満足してしまって、自分の能力と誤解しかねない。「能力を褒めるとダメになる」と同様、能力への過信から、努力を怠るようになるのです。多少の挫折も必要かな。できない苦しみがあるから、小さなことを喜べる。
 では、藤井四段の快進撃は何か。現時点で記録破りの二十九連勝です。彼にとっては「僥倖」と言っているように、勝つこと自体は、自分の能力ではなく、「運」だと本当に信じているのかも知れません。だから、その運を高めるために、さらに努力をしているのだと思います。体操の内村さんだって白井さんだって、陸上のサニブラウンさんだって、始めからトップアスリートではないのです。小さな達成感を積み重ねてきたからこそ、努力できる人になるのだと思います。


新校長室だより
 わかば第八十二号
  平成二十九年六月二十七日(火)

  ちゃんと・・・しっかり・・・
 「ちゃんと考えましょう。」「しっかり考えましょう。」私たち教職人種がよく使いそうな言葉です。しかし、これでは、指導しているようで指導ではない。単なる指示。しかも、何をどう考えればいいのかさっぱり分からない。まして、低学年のみならず、高学年でも児童は、「考える」ということ自体、「?」それこそ、考えても考えてもわかりません。
 さらに、「ちゃんと」っていうのはどういう状態になれば「ちゃんと」しているといえるのか。「しっかり」もどのような状態なのか。曖昧で分からないわりに、私たちだけでなく、親としてもつい使ってしまいます。言われた方は、「なんだか、みんなが静かにしているから「静かにしている」のがちゃんとかな?」と思ったりする。
 調べてみると「しっかり」はなんと漢字では「確り」。初めて知りました。漢字にすれば、何となく意味がつかめそうです。ネットで調べると、「1 物事の基礎や構成が堅固で安定しているさま。㋐かたく強いさま。2 考えや人柄などが堅実で信用できるさま。3 気持ちを引き締めて確実にするさま。4 身心が健全であるさま。また、意識がはっきりしているさま。5 十分であるさま。たくさん。皮肉をこめていうこともある。6 相場が上昇傾向にあるさま。」と、六つもあります。「しっかり考える」のときは3でしょうか。「もしも~し!校長!大丈夫?しっかりして!」のときは、4番目かな。
 つづいて「ちゃんと」は「1 少しも乱れがなく、よく整っているさま。2 確実で間違いのないさま。3 結果が十分であるさま。4 すばやく動作をするさま。さっと。」の4つ程。「ちゃんと考える」のときは2番かな?「さ、○○ちゃん、ちゃんとして」なら1番でしょう。
 最後に、深い学びにつながる「考える」って、どういうことでしょう。この言葉にも八つほど意味がありますが、そのうち「物事について、論理的に筋道を追って答えを出そうとする。思考する。」ということのようです。似た言葉に「思う」があります。こちらは、「主観的な希望や、漠然とした思いを表す」ことです。違いが分かりやすい例として、「問題の答えを思う」とは言わず、「問題の答えを考える」と使います。
 「しっかり考えましょう。」とだけ言った場合、「考え方」を指導されていなければ、聞いている小学生は「黙って、好きなことを思っていればいいんだ」と勘違いしかねません。「考え方」の指導は、非常に抽象的な作業になりますが、経験を想起させたり、立場を変えさせたり、という実際の練習が必要になります。複数の情報を比較させることも必要ですが、低学年のうちから少しずつ育てていくしかありません。 


新校長室だより
 わかば第八十一号
  平成二十九年六月二十六日(月)

   草取り
 今年度は、自宅の自治会の班長になってしまいました。それで、昨日の日曜日は、近所の神社脇の公園の除草作業にかり出されることに。明け方にはまだ、雨がしっかり降っていたのですが、予定時刻の八時に近づくにつれて、ポツリポツリという状況に。雨で地面が柔らかくなっていて、草も取りやすいだろうと、三角鎌を持って出かけました。水たまりには、ときおりかすかに雨粒の波紋らしいものも見えます。アスファルトも車のタイヤ跡にそって乾いてきていて、雨雲を通しても、夏の日差しが感じられるほど蒸しています。
 神社に行ってみるともう数人の方が作業を始めてらっしゃいました。挨拶を交わして、私も草を刈り始めました。「班長」とは、名ばかり。リーダーでもないし、回覧板を手配したり、市の広報を分けたりという、言わば「役割当番」ですね。しかも、この蒸し暑い中、除草作業ですから。班長以外の人たちはお呼びがかからない。そうか、今まで他の人たちがこうやって地域をきれいにしてきたんだな、とようやく気がつきました。
 ♪とんとんトンからりんと隣組
  障子をあければ顔なじみ
  回してちょうだい回覧板
  知らせられたり知らせたり♪
と、いう歌やメロディーをご存じの方は50代後半以上の方でしょう。今は、私の住んでいる茨城の田舎でも、隣の人と顔を合わせることが殆どない。気密住宅で、ドアも窓もしっかり閉められ、エアコンの室外機が動いていて、そこの住人がいらっしゃることが分かるくらい。
 私の子ども時代、昭和三十年代、まさに「ALWAYS三丁目の夕日」のころ。お向かいの大工さんの家とは、お互いにしょっちゅう行き来していました。お向かいのおばさんにお小遣いをもらって買い食いすることも。何も用事がなくても、「お茶を一杯」と、おじさんがしょっちゅう我が家に来ていました。留守宅に鍵をかける習慣さえなかった時代です。
 そんなことを思い出しながら、一時間ほど作業を続け、汗びっしょりになって一通り終了でした。「見違えるほどきれいになりました。」と代表の方の挨拶でしたが、緑色がたくさん残っています。思い出すのは、農家のおばあちゃんの除草。学校でボランティアで来ていただいた時です。黙々と鎌で草を取り、草が一本もない状態にしてしまうのです。
 下農は雑草をつくり
 中農は作物をつくり
 上農は土をつくる
 とは、よく言ったものです。いい加減な時期とやり方で除草しても、逆に草の種まきになりかねない。生き物の命といつも触れている農家の方は、草を刈るにしても徹底的にやることが、後の仕事を楽にしてくれることを知っているのだと思います。


 新校長室だより
 わかば第八十号
  平成二十九年六月二十三日(金)

  クレーム
 クレームは和製英語ということはご存じでしたか?私も知りませんでした。もともとのクレームは商取引上の違約があった場合の損害賠償請求とのこと。「苦情」はcomplaint。なんか、中学校か高校で出てきた単語です。苦情対応の部署に就いている友だちもいますが、彼が言うには、やはり「誠意を持った対応」が最も大切とのこと。その誠意には、素早さも入ってきます。初期対応が肝心要。しかし、これは、事後のマネジメントに含まれます。
 事後って分かるけど、クレームの事前って何?と聞かれそうですが、いわゆるリスクマネジメントの部分です。危機回避のことです。事後の場合はクライシスマネジメントというそうです。
 では、苦情回避のために肝心なことは何か。いろいろ有ると思いますが、私は、やはり誠意ある行動であると信じています。苦情、相談という行動を地域や保護者の方がとるのはかなりエネルギーを使います。「子どもへの八つ当たりをされたら心配」という心理も働くでしょう。それでも、言わなきゃ!と行動にでるのは、怒り、憤り、積もり積もった不満。
 ちょっとしたミスなんて、私も(「も?」「私だけ?」)、しょっちゅう犯してきました。それでも、「てめぇ、クビだ!」と保護者に言われたのは一回だけ。その時を振り返ると、やはり、「誠意」が足りなかったかと反省しきりです。登校をしぶりがちな子への日常的な対応が欠けていたのではないかと今でも思っています。
 逆に、大きな失敗をしたのに、大笑いして許していただいたこともありました。保護者から預かったお弁当を、なんと他の子に渡してしまったのでした。「先生、お母さんからお弁当預かりませんでした?」と児童から聞かれ、真っ青に!あ、あれは、この子のお母さんだった!名前を確認すれば良かったのに、良く会う母親だったので、別のあの子のお母さんだとばかり思っていたのでした。
 もう、その子にも、お母様にも平謝りです。「大丈夫ですよ。追加のおかずだし、何も食べなかったわけじゃないから。」と言っていただいても、申し訳ない気持ちでいっぱいです。

 「中学に入ってからいじめに遭ったのは、六年の時、(当時の担任の)私からいじめられていたからではないか。」と面談に来た保護者への対応の時。教頭先生に報告すると、「大丈夫!あなただから言いに来てくれたのよ。聞いてもらえると思っているのだから、ちゃんと話を聞いて上げなさい。」
 普段から子どもたちに誠意をもって指導することの大切さを教えてくださった教頭先生でした。そう、普段からの誠実な学習指導が信頼を生むのです。信頼には担保はいりません。誠意が育てていくものだと思います。


新校長室だより
 わかば第七十九号
  平成二十九年六月二十二日(木) 

  久しぶりの雨・雨音
 ようやくまとまった雨が降りました。せっかく降ってくれたのは有り難いのですが、おおぞら学級の交流遠足の日じゃなくっても良かったのに・・・と恨めしくも思います。しかし、私たちの都合でお天気は変えられないものです。
 気温もまたぐっと下がりました。ベイシアで買った85㎝の大きな傘をさして、歩くと、雨音が聞こえてきます。三年生の教材の「きつつきの商売」を思い出します。パシャパシャと降る雨の音を売ったり買ったりするなんて素敵なアイディアだなぁと思います。
 音と言えば、昨年度、運動会の決定を決めた朝、職員室で「開催しましょう」と話した私の声が、校庭を挟んだお向かいのお宅に聞こえていたそうです。大声で怒鳴ったわけではないのです。「校長先生の、”開催しましょう"の声にびっくりしました。」と当日教えていただきました。
 本校は、車の往来の多い幹線道路からは離れているし、とても静かな住宅地の中ですから、職員室や教室での子どもたちの賑やかな声、先生達の指導する声が校庭や、裏の駐車場に行ってみると結構はっきりと聞こえます。まして、大きな声で怒鳴ったりしたら、まる聞こえと言ってもよいでしょう。
 都内では、静かな住宅地に保育園を開園しようと計画したら、子どもたちの声がうるさくなるからと、反対運動が持ち上がったという報道がありました。子どもたちの歓声を、心地よいものととらえる人ばかりではないのだと驚かされます。気に障り始めると、普段はどうってことない音も、雑音や騒音として耳障りなものになってしまうのはしょうがないことでしょう。
 私自身、先日の出張の際、こんなことがありました。湘南新宿ラインの先頭車両ボックス席で本を読んでいたら、久喜から乗り込んできた高齢の女性のグループが、他の三つの席にすわり、賑やかにおしゃべりを始めたのです。私も集中力が続かない方なので、おしゃべりの内容を聞いているわけではないのですが、聞こえてくる言葉のせいで、本を読むどころではない状態に。
 都内で下車してくれるかなぁ、と期待していたら、なんと逗子方面まで行くようなお話の内容です。乗客が少なくなり、そのボックス席から避難したのは品川を過ぎてからでした。ボックス席でのんびり、なんて、浅はかな考えだった自分自身を反省すると共に、そのグループが、もし、子どもだったら、誰かが叱ったり注意したりするのかも知れないなぁ、と思いました。立場が違うと、同じ行動でも、そのままに許されることと、そうでない場合もあるようです。とにかく人の振り見て我が振り直す、というところでしょうか。


新校長室だより
 わかば第七十八号
  平成二十九年六月二十一日(水)

 学力向上支援担当訪問お礼
 昨日は、学力向上支援担当訪問、ありがとうございます。ご準備や、公開授業の指導案、さらに研究授業に向けての事前授業、模擬授業等、工夫していただきました。それらを元に、研究協議でも、子どもたちの変容に目を向けた協議ができ、授業を提供してくれた、羽島先生も、満足感でいっぱいだったのではないでしょうか。あるいは、次はもっとこうしよう、と新たな課題を見つけることができたと思います。
 東部教育事務所の指導主事のご指導も、的確で、私自身勉強になりました。国語だけでなく、保健学習にも精通されていることに有り難く思いました。「必要かもしれないけど、あえて、余計な部分をそぎ落とした」点を指摘していただいたことも有り難いと思いました。
 さらに、今回、何よりも、先生方みんなで作り上げていった研究・研修の部分に感動しております。こうした共同の研究が、日常的な授業改善に結びつくのだと思います。また、昨年度の引き続きの研究の部分も、パワーアップし、積み上げになっていると感じます。
 一夜にして、良い学級経営、学習指導ができるわけではありません。低学年から積み重ねてきたものも、良い授業につながります。分科会での公開授業のご指導の中で、手応えや達成感を感じられている方、また、次こそはこうしようと課題を掴まれた方、どちらも子どもたちのためにというスタンスを堅持し、ぜひ、今後も自信を持って、研究を推進していきましょう。
 今回は、昨年度よりも多くの杉戸中学校の先生方に公開授業を見ていただきました。研究授業は、校長先生だけになってしまいましたが、小中一貫の取組として、今度は、杉戸中学校の訪問に私たちが行くことになります。授業や自習を融通しあって、実現していきましょう。中学校でがんばっている卒業生の姿もぜひ確認してきたいと私も思っています。
 ところで、「アジサイを漢字で」と言われて、すみません。漢字が頭に浮かびませんでした。お話の中の「陽」の字が入っているという記憶はあったのですが。すっかりPCの変換に頼っていて、やはり、使わないものは使えるようにならないと実感しています。時々は、アナログで文字自体を書かないと身につかないものですねぇ。 最後に、校長室での話の中で、課題を「~にはどうしたらよいか」という形は、児童の振り返りに直結しやすいという評価もいただきました。論理的整合性です。これも、是非、日常化をお願いいたします。

 


新校長室だより
 わかば第七十七号
  平成二十九年六月二十日(火)

  変身願望
 昨日は、学校保健委員会でした。保健委員会の子どもたちの発表のりっぱなこと!ほれぼれしちゃいます。声が通るし、滑舌も良い。スライド操作のU君も落ち着いたものでした。とてもわかりやすい発表だったと思います。先週のご指導もさることながら、普段の先生方の学習指導の成果でもあると思います。保護者の方々も感心していたのではないでしょうか。
 また、中澤先生が上手に保護者一人一人に活躍の場を確保してくださったので、みなさん「参加した」という思いをもっていただけたことと思います。その保護者の発表の中で、「眼鏡に憧れる子がいる」というのがありました。実は私も、眼鏡をかけたきっかけはそれ。新潟平野のど真ん中で、見晴らしの良い中で生活していて、家庭学習も殆どしない子でしたから、目が悪くなるはずがない。アフリカの原野で暮らしている人々のように、視力5,0だって夢じゃない環境です。
 それが、中学に入って、色気づくじゃないですか。思春期ですよ。世の中にはジーパンなるものが流行り始めたし、ベルボトムなんてものも出始めていた。ギターもかっこよさそうだからとりあえず覚えたし。眼鏡もかけてみたい。不純な動機で一応家庭学習を薄暗い環境でやってみた。思春期で目は血走っているし、そりゃ、目が疲れますよねぇ。ぎりぎり、視力検査で、眼鏡が必要程度まで視力が下がりました。おそらく仮性近視。
 薬剤師の内山先生のお話の中でも、昔から眼鏡に対する憧れはあったのだとか。もしかしたら、仮面をつける願望に似たものがあるのかも知れません。いわゆる変身願望でしょうか。私は私自身でしかないのですが、どう見られているのかは、他人が決めることです。容姿に関しては、服装や、身につけているもので変えることができます。だから、髪型を変えたり、眼鏡をしたり・・・。
 しかし、自分は自分でしかないし、自分自身をいちばん知っているのは自分です。それだって、いろんな可能性の部分で見えていないところがある。先週のテレビ寺子屋で、元アナウンサーの小島慶子さんが、ご自身の子育てを語る中で「わが子だって、その子のことは何も分かっていないものとして接してきた」とおっしゃってました。先入観や、自分の子だからという意識は捨て、ありのままのその子を受け入れる。親の姿勢として秀逸であると感じました。
 ありのままの自分を受け入れてもらえることのよろこび。それが親子の愛情であると思います。また、他人とのコミュニケーションの基本かもしれません。Let it go!なのです。ありのままの自分を大切にされる子は自分で命を粗末にはしない、そう確信します。


新校長室だより
 わかば第七十六号
  平成二十九年六月十九日(月)

  「ほうれんそう」より「かくれんぼう」?
 東洋経済オンラインに、いわゆる「報連相」の語呂を発案した山﨑富治社長の話がありました。職務遂行上、「報告」「連絡」「相談」が大切であることを的確に表した言葉として、私たちも使っています。 初めてこの言葉を聞いた時には「ポパイ」を思いうかべてしまいましたけどね。(もしかしたら、五十代以上の人にしか解らないかも知れません)「ホウレン草をむしゃむしゃ食べて、パワー全開」みたいなイメージかな。
 いやいや、そんな話ではなく、この言葉が発案された80年代はバブル真っ盛り。どこの企業もイケイケドンドンだった。だからこそ、ブレーキとしての報連相が必要だったのかも知れません。社員や部下が勝手に判断して思わぬ落とし穴に陥らないように、報告や連絡、相談は欠かしてはいけないのです。
 しかし、バブルがはじけ、長期の低成長時代に入り、「人財」という言葉までできたほど、人材育成が企業にとって重要になってきた。学校現場にも、「自ら判断し考える」力の育成が求められるようになると、報告や連絡はまだしも、「相談」って、いちいち上司が考えてやらないといけないの?それって、指示待ち人間をつくっているだけじゃない、ってことになる。
 そうすると、「○○について、△△のことを重視して、さらに◇◇を考慮し、××としました。(あるいは)してよいでしょうか。」的な「確認」こそが重要なのではないかという言葉が「かくれんぼう」「確認」「連絡」「報告」です。
 確かに、瞬時に判断を迫られる教育指導の現場でも「判断力」が大切です。しかも大学やビジネススクールなどで即実践力を備えた人材が企業に入社する欧米と違って、日本では、採用されてからも研修やOJTで人材を育成しなければならない現実があります。さらに、「指示待ち人間では困る」と、先生方ご自身が、子どもたちの指導に関してお話しされている。
 そうすると、確かに「かくれんぼう」文化の早期熟成が大切なのかもしれません。「○○についてどうしたらよいでしょうか」ではなく、「○○について◇◇としたいのですがよろしいですか」と相談できるような児童を育成することも、20年後、30年後に活躍する人財目指して、必要でしょうね。
 「どうすればよいのか」よりも「どうしたいのか」に、その人の考え方や、性格が表れてくるようにも思います。私も自問していきたいと思います。なぜなら、「ま~だだよ。」だからです。


新校長室だより
 わかば第七十五号
  平成二十九年六月十六日(金)

  叱る指導!
 「人間を育てる菊池道場流 叱る指導」という書籍を手に入れました。実は前に買っていて、ようやく他の本を読み終わり、手にしてみたのです。アドラー心理学を否定しているようなところがあり、警戒しながらページをめくってみると、「叱る」スタイルについて独特のものを持っているようで、「褒める」ことを多用する流派のようです。その「褒める」も、ちやほやするというよりも、どちらかというと「認める」に近いものがあり、やっていることは、アドラー的な指導ではないかと思いました。
 叱る指導の実際で「教室あるある」の中に「あいさつの声が小さいとき」というページがありました。その中に「あいさつ指導は、一度の指導で劇的に変化するというものではありません。継続的に指導することで本当の子どもたちの力へと変わっていきます。」とあります。そして、指導の実際には、「あいさつを楽しむ」「よりよいあいさつについて考える」「遠くからあいさつをするために」など具体的に指導例が載っています。
 その具体例の中で「叱る指導」があるのですが、それは、私たちが一般的にとらえる「叱る」ではなく、「困っていることを話し考えさせる」ということのようです。課題を与え解決を自分たちで行わせる学習指導のようです。具体的には、あいさつ指導がうまくいってきている先生が他の先生達と廊下でいたところ、担任しているクラスの子どもたちが、その担任の先生にだけ「○○先生おはようございます!」と元気よくあいさつしてすれ違っていった。担任は教室で「みんなのせいで、私にしかあいさつをしない子が多い。」と苦言を呈したのです。それっていいことなの?と考えさせたのです。
 「頭ごなしに叱る」のは指導ではありません。価値の押しつけにしかなりません。自分で考えさせ、最善の解決策を求める。これは、アドラーや、そこから派生したコーチングにまさにぴったり当てはまるものではないかと思います。
 この本、ノートPCの近くに起きますので手にとってご覧になってみてください。なるほどなぁと役に立ちそうなページが見つかりますよ。


新校長室だより
 わかば第七十四号
  平成二十九年六月十四日(水) 

   紫陽花
 ようやく梅雨らしく雨のお天気になってきたと思ったら、プール開きでした。昨日は四月中旬を思わせる気温になると予報が出ていました。この天候不順・・・。と嘆きたくなるところですが、「天気」は変わりやすいものの例えに使われるくらいですから、しょうがないのでしょうね。
 ところで、買ってきたアジサイはご覧の通り青。ジョイフルに行ったら、ガーデンアジサイで青と白っぽいのしか見当たらなかったのでした。それで、鮮やかな青にしてみました。「ガーデン」とつく位なので、地植えにした方がいいでしょうね。通勤途中に通る権現堂堤は今「あじさい祭り」ののぼりがたなびいています。
 紫陽花の花の色は土壌の酸性度によって変わるのをご存じの方も多いかと思います。六年生の学習では、リトマス紙を使います。酸性は赤、アルカリ性は青に変わるというのを、武田鉄矢さんだったかラジオで「おかあさん」と覚えるように先生から指導されたとか。「おあかさん」だったら、さらに覚えやすかったでしょうに、お母さんはおかあさんです。
 そんな、話をしていて、紫陽花も、土の酸性度によって、赤や青に変わることから、「紫陽花のことを英語でリトマスというんだよ。」なんて持ってくると、妙に納得した顔の子どもたち。そこで、すかさず「うっそぴょ~ん!」英語では、ハイドランジア。ハイドロとつくから液体のことを表す。水をたくさん必要とする植物であることから名付けられたそうです。
 このアジサイ、実は日本原産の植物で、園芸品種として海外に渡り、逆輸入されているということです。西洋で品種改良されたものを特に「西洋アジサイ」とか「ハイドランジア」と呼ぶのだとか。
 さて、土壌の酸性度のことでした。青いアジサイは、リトマス試験紙からアルカリかと予想しちゃいますが、実は酸性土壌で青くなり、逆にアルカリ性土壌では赤くなるのだそうです。だから、酸性やアルカリ性など水素イオン濃度を学び始めた子どもたちには混乱を招いてしまうのでそこまでは触れませんでした。
 ちなみに、「リトマス試験紙」はリトマス苔という植物の色素を利用してつくられているそうです。アジサイや、紫タマネギなどと共通するのはアントシアニン系色素が含まれているところです。水素イオン濃度によって色の変化があるのです。リトマス苔はちょうど中性で無反応になるところから指標として使われるのかも知れません。
 ところで、明日は、開校記念日。東武公やTDLにお出かけの子もいるのかも知れません。私は出張。横浜たそがれです。くれぐれも、日中うろうろして補導されないようにご指導ください。


新校長室だより
 わかば第七十三号
  平成二十九年六月十三日(火) 

 ヘルメット
 初任の学校で、あれは、二年目か、三年目の事だったと思います。グシャグシャにつぶれたヘルメットを見せられて、「昨年度まで特学にいた子が、中学生になって自転車通学の途中事故に遭った。そのときかぶっていたヘルメットがこれだ」ゾーっとしました。まだ、新しいであろう樹脂製のヘルメットがお椀型だったことを想像するのが難しいくらいつぶれている。
 「では、そ、その子は、亡くなったんですね・・・・。」
 「いや、そうじゃないんだ。このヘルメットがつぶれてくれたおかげで、その子の命は無事だったんだよ。」
 北埼玉地方は、登下校に徒歩でもヘルメットをかぶっているところもありますが、その学校では、普通の黄色のキャップでした。冬になると毛糸の帽子に変わるのがかわいかったのですが。

 昨日、五時過ぎに、下野の通学路で、ヘルメットをかぶって自転車に乗り、帰宅を急いでいた本校の四年生に会いました。私を見て、元気に「さようなら!」と挨拶をしてくれ、先生方のご指導が浸透してきているなぁと思いました。
 保護者が、一三歳以下の児童に自転車乗車時にヘルメットをかぶせるのは努力義務となっていて、罰則もありません。ところが、原付バイクでは、ヘルメット着用は義務化されていて、ノーヘルだと免許を減点されてしまいます。罰金はないようですが、たった一点の減点なのに、みなさん守っていらっしゃいます。児童の自転車乗車には、減点する免許もないことから難しいのでしょうね。
 休日、自宅近所のサイクリングロードをママチャリで走ってみました。三〇分あまりで、五人くらいのロードレーサーとすれ違いました。自転車って流行っているんですよね。みなさん、ウエアも決めて、高そうなロードレーサーに乗り、シャ!シャ!って軽そうな音を立てて走りすぎていきました。もちろん、かっこいいヘルメットをかぶっています。それに比べて私は麦わら帽子。日差しが強かったのと、風が気持ち良かったので、大人だから自己責任としていいかな・・・。
 でも、子どもたちにはヘルメットをかぶらせましょう。先日の交通安全教室では、三年生は自分のヘルメットを持ってきてもらいました。各クラス十名以上が持ってました。みなさんのクラスはどうでしょう。 


新校長室だより
 わかば第七十二号
  平成二十九年六月十二日(月) 

  才能よりも努力を認める
 先週、花ボランティアさんが、職員玄関脇の花壇の整理をしてくださいました。その際、大きく育ってきたコスモスを東門脇の遊歩道側に植え替えていただきました。水曜日には土砂降りの予報だったので、期待していたのですが、その後、ポツリと雨粒が落ちては来たものの、それっきり。せっかくのコスモスもみんなクタ~っとなってしまっていました。それで、水をやり、木曜日に見てみたのですが、様子は変わらず。しかし、触ってみると、ぱりぱりにはなっていない。枯れてはいないようだと一縷の望みを持っていたところ、金曜日の朝は、二株だけですが、ピン!と細い葉を広げていました。
 私たちの仕事と同じで、働きかけても直ぐには結果に結びつかない。しかし、様子をよく観察し、適切な手当をすることによって、期待した変化を得ることができます。ただ、「待ち」の我慢が大切です。結果を焦ると、せっかくの働きかけがマイナスに影響することさえあります。
 「たくさん食べる子は大きくなる」ことはまちがいないとは思いますが、今日食べて、明日大きくなるかというとそうではありません。結果に結びつくのは、数ヶ月後、あるいは数年後ということもあります。体力もそうです。今日運動したからといって、明日頑丈な体になるわけではありません。
 大切なのは、「大きくなりたい」とか「丈夫な体になりたい」など、本人が願い続けることができるかどうかです。その思いが持続できれば、願いは目標になって、実現可能なのです。学力でも同じ事が言えると思います。「分かるようになりたい」気持ちはどの子も持っているのですが、それを単に「願い」だけに留めておくのではなく、目標に変換させていくことも私たちの大切な仕事です。
 そのために、小さな目標をもたせてクリアさせたり、できているところを認め励ましたりします。しかし、決して「能力」を褒めてはいけません。「君は、もともとできる子だ」とか「才能があるねぇ」などは禁句です。教育経済学者がエビデンスを明らかにして主張していることです。では、どのように働きかけていくか。それは、結果だけでなく、その結果に至る、「途中の努力」を認めていくことです。
 木曜日の段階では、巨人が13連敗という信じられない結果になっています。まだ、最下位にはなっていないことがせめてもの救いです。昨年、パリーグで最下位だったオリックス。私の教え子の若月捕手の活躍を期待していたのですが、今年は、安打も打って、打点も稼いでいます。両方のチーム、監督がどう選手に働きかけているのか興味がわくところです。「途中の努力」を最下位でも認めることができていたのか。モチベーションをどう保っていたのか、参考になると思います。


新校長室だより
 わかば第七十一号
  平成二十九年六月九日(金) 

 梅雨入り
 関東地方も梅雨入りしたと見られる。とニュースで言っていました。なるほど、からっと晴れたお天気ではありません。でも、土砂降り予報が覆されて、植木鉢だけでなく、花壇の土もカラカラです。四年生や五年生が、ジョウロを持ってプール脇の栽培園まで、水を運んでいる様子を見ると、一雨ザーッて来ないかなぁと空を見上げて恨めしく思ったりします。
 さて、「つゆ」に梅の字が充てられているのは、梅の実のつく頃の雨のシーズンだからという説があります。確かに、スーパーに行くと、梅がどっさり売られています。最近はコンビニにも置かれていることがあります。高齢者が増えて、買い物難民になり、コンビニが文字通り便利な近所のスーパー化しているのかも知れません。うちの近所のコンビニも最近お年寄りの客が増えたように思います。
 梅の説の他に、「黴雨」と書かれることもあります。黴菌の「ばい」です。なるほど、梅雨の時期はジメジメして、カビや黴菌が増殖する時期でもあります。手洗いうがいなどこまめにするように指導するときには「黴雨」と書いた方がぴったりするようにも思います。
 こうした、雨の季節や暑い夏を気持ち良く過ごすための古くからの日本の家屋の工夫は、風通しを良くすることでした。社会科で学習する「寝殿造り」は、締め切るような部屋がなかったそうです。平安京が置かれた京都は盆地ですから、夏はめちゃめちゃ暑い。それにジメジメしている。外や部屋と部屋の仕切りは簾(御簾)で仕切られているだけ。
 冬はとんでもなく寒かったでしょうね。でも、寒さは着込むことで何とかしのぐことができたのかも知れません。女の人は十二単なんて重ね着をしていたくらいですから。男性貴族は衣冠束帯でこれも重ね着をしていたのかも。暖房器具は、火鉢ぐらいでした。それを股に挟んで暖を取るパーソナル暖房だったとのこと。
 一般の庶民は、どんな家かというと、平安から鎌倉時代あたりまでも竪穴式住居が当たり前だったとか。縦穴は地面にある程度穴を掘りますから、地中の温度は一年を通じて安定しているので、それはそれで過ごしやすかったのかも知れません。しかも、中央に囲炉裏のような炉がほってあったから、もしかしたら冬は庶民の方が過ごしやすかったかも知れません。
 時代は現代。今の家屋は気密住宅が一般的です。サッシで締め切ると、中の湿気も換気扇でもつけないと外に抜けません。おかげで、梅雨の時期はエアコンで除湿のお世話になり、冬は、加湿器で結露という何とも進んでいるんだか遅れているんだか分からない状況です。
 梅雨が過ぎれば、暑い夏。日本古来の葦簀のお世話になって少しは涼しく過ごしましょう。図書室のエアコンも使えますよ。


 新校長室だより
 わかば第七十号
  平成二十九年六月八日(木)

 自己肯定感
 日本の年間の自殺者数は交通事故死亡者の数の六倍だそうです(平成二十六年)。平成二十六年は、交通事故死亡者が4113名に対して、自殺者は25427名。東日本大震災で亡くなった方が約二万五千人と言われていますから、毎年それだけの人数の方々が自殺により命を落としている勘定になります。
 さらに、20代から40代の死亡原因のトップが自殺です。10代でも、2位、3位を占めています。さらに、高校生の自殺者数は、少子化の中で割合が年々高くなっているのです。その原因を「いじめ」だけに絞っていいのでしょうか。いじめ対策防止法が施行されて、「いじめ」行為そのものは減ってきているはずです。そうでなければ私たち教職員の怠慢です。それなのに、自ら命を絶つ子が減らない。
 WHOの勧告では、「自殺の原因を特定してはいけない」となっています。自殺は、複合的な要素が絡み合った、心の病から引き起こされる結果の一つなのです。対策防止法にある「重大事案」を避けるには、子どもたちの心の状態を健康にしておくことがとても大切だと確信します。
 心の状態を健康にするとは、まさに、タイトルに書いた「自己肯定感」を着実に着けていく、育てていく、確立していく、ということではないでしょうか。自己肯定感は、何も「自己有用感」だけでは有りません。端的に言えば「ありのままの自分」を大切にする意識です。
 年齢が上がるほど、私たちは人と自分を比べてしまい、つい、「優劣」をつけてしまいがちになる。容姿に始まり、成績、運動能力、社会性、性格等々。私は私でしかないのだから、努力して改善できる部分があっても、それができない自分も自分で抱きしめてしまえるくらいの気持ちが大切なのだと思います。
 容姿で言えば、テレビやマスコミには「なんてかわいいんだろう」とか「なんてかっこいいんだろう」というタレントばかりが露出されています。また、能力では、卓球や将棋の世界で、ものすごい力をもつ中学生が報道されて話題です。それに比べて自分は・・・・。と自己を卑下するような態度や意識は、自己を向上させるにはエネルギーになるかも知れませんが、「それでも自分は自分の事が好き」であることをなくしてはいけないのです。
 兵庫県や九州地方で取った調査では小学生の1割以上の子どもたちが、輪廻転生を、つまり「生まれ変わり」を信じているというデータもあります。この間違った(と思います)死生観を払拭することも私たちの重要な使命であると思います。 「たった一つしかない命、一度しかない人生、本当に生かさなかったら生きてきた甲斐がないじゃないか」は山本有三の「路傍の石」の中の台詞です。中学一年生の時の国語の青木先生が黒板に書いてくれたことをいまだに覚えています。皆さんも、そんな心に残る教師であると信じております。


新校長室だより
 わかば第六十九号
  平成二十九年六月七日(水)

  AED講習会
 月曜日の心肺蘇生法講習会への参加ありがとうございました。あのときお話ししましたが、AEDは使わないに越したことがありません。そのような状況にならないことが一番です。そのためには、準備体操は言うに及ばず、普段の健康観察で子どもたちの様子を「見る目」を鍛えることが欠かせません。
 一言で「みる」と言っても「見る」の他に「視る」「診る」「看る」「観る」「覧る」と、さまざまな「みる」があります。英語でも、seeの他にwatchやlookがあり、日本人は「みる」の音だけで生活していますから、苦労してしまいます。
 視覚的に「見る」といった場合、英語では、seeに当たるのかも知れません。ただ、seeには、I see.のように「理解する」という意味も含まれます。「視る」はもしかしたらwatchでしょうか・・・。あ、脱線しました。
 私たちは、子どもたちを注意深く見ていなければなりません、と、いう話でした。「注意深く見る。」とは、どういうことか。いつもながら、釈迦に説法的な話で恐縮ですが、「いつもと、違った様子はないか」「もしかしたら、あの子の行動は次には○○となるかもしれない」ということに加えて、「今の空模様からすると、雷になるかも知れない」ということも含まれます。また、水泳学習の場合、本校のプールは、遊歩道から、わずかながらの隙間ですが、見ようとすれば見られてしまう構造です。不審な人物がいないか、など、目玉がいくつあってもたりないくらいの注意深さが必要になってきます。
 担任一人で、あるいは、共同でプール指導を行っていて二人の教員で指導する際も無理があることでしょう。やはり、子どもたち自身に、自分や友だちの様子など、お互いに、危険なことが起こらないかなど、注意しあうような指導が必要でしょう。自分の命は自分で守る、だけでなく、自分たちの命は自分たちで守る体制をつくるのです。
 水泳だけではありません。授業中、急に具合が悪くなることもあります。そのとき担任が気づけばいいのですが、隣や前で苦しそうにしているのに黙っていたり、気づかないようでは困りますよね。「先生!○○ちゃんの様子がおかしいです!」と言えるような学級経営を引き続きお願いします。
 私たちの仕事は、大切な命を預かる仕事です。常に危険と隣り合わせと言えます。「このぐらい大丈夫だろう」という油断が大きな事故を招きかねないのです。逆に考えれば、幸運に恵まれて、大きな事件・事故が起きていない状態なのかも知れません。
 AED講習会では、常に命を守る「チームワーク」の大切さを、実際に演習で学びました。AEDを使うときだけではない普段の連携が、子どもたちの安全を守ってくれていることをもう一度確認していただければ幸いです。

 


新校長室だより
 わかば第六十八号
  平成二十九年六月六日(火)

  掃除
 東井義雄先生の引用、これがあるから、コラムの字数を稼ぐこともできる。他人のふんどしで相撲を取るようなズルをしている引け目もあります。高小HPにも、引用をそのまま掲載していたのですが、著作権上、問題かと思い、削除しました。
 毎日日めくりで、私自身感動している文章です。掲載しなかった土日分にも、とても強靱な東井先生の言葉があります。先生方と是非共有したという思いもあります。
 六月に入って、「掃除シリーズ」になったように思います。また、「六月」のページの冒頭に「下農は雑草をつくり 中農は作物をつくり 上農は土をつくる」とあります。繰り返し読んでいて、上田知事の「埼玉教育の振興に関する大綱」にある「アメリカの教育学者のウィリアム・アーサー・ワードは、「凡庸な教師はただ話す。よい教師は説明する。優れた教師は自らやってみせる。そして、卓越した教師は心に火をつける。」」を思い出しました。
 高小は、無言清掃がしっかりできるように、先生方に指導していただいています。これも、先生方の見ていないところでも、「子どもたちの心に火」をつけていただいていた結果です。
 それから、子どもたちの活字離れが嘆かれている中で、学校評価では「読書」に関するポイントが上がってきている。これも、先生方の指導により、「火」をつけているのです。
 これらは、なによりも、大人が「見ていない」ところでできている、という点が大切なのだと思います。先週のお話朝会でも、三年一組のアンケートで、挨拶を、地域の方にしている割合が最も多かったということも「心の火」を感じました。
 先週の振り替え休業日に学校に来たところ、四年生の男の子が、ジョウロをもって、ヘチマ棚のところまで行き、水やりをしていました。当番なのか、自発的なのかは分かりませんが、自分たちの学んでいる「ヘチマ」に「命」を感じ、支えていこうとする態度にやはり、子どもたちの「心の火」を感じます。
 ホウセンカも、芽が出ないことを心配していた子の何人か発芽を見て嬉しそうでした。芽が出ない子は、どんな思いをしているのだろう。そう思うと、胸がチクンと痛くなります。つい、休みの日も、ホースで潅水してしまいました。(子どもたちには黙っていてください)特に、この日曜日は風が強く、湿度も低かったので、土も乾きがちでした。それでも、いくつかの鉢の土は(一年生も、三年生も)ついさっき水をやったあとが感じられました。きっと、自分の鉢を大切に思い、わざわざ水やりに来てくれたのでしょう。そういう子が育っていることも嬉しく思います。

 


新校長室だより
 わかば第六十七号
  平成二十九年六月五日(月)

   グレゴリー・セドフさん来校
 私の友人が「地球市民クラブ」というNPOをやっている関係で、グレゴリーセドフさんを招いての「ピッコロバイオリン演奏会」を本日開催いたします。演奏会とは言え、四年生の音楽教材のバイオリンがらみの学習の一貫として、四年生限定になることをご理解ください。
 グレゴリー・セドフさんの活動を紹介するfacebookによると、
「六月十四日、オリンピック青少年センター小ホールで開催される、今年のグレゴリーセドフのピッコロヴァイオリン演奏会のタイトルを「ステップ トワード フェスティバル」と致しました。
 震災で今も故郷を離れて暮らしている方、困難を抱えている方、つらい思いをしている方、これからの次代に踏み出そうとしている若い方々にエールを贈るというメッセージが込められています。
また、ロシアのサンクトペテルブルグにある”ステップ トアード”という障害をもつこどもたちに芸術を通して社会参画を促す活動をしている団体とのコラボも意味しています。
 「福島の為に祈る」というイベントをロシアで開催し、多くのロシアの方々からも日本へのエールをいただいてきました。」
とあります。
 セドフさんは、東日本大震災直後から、その被災者に心を寄せてくださっていて、五年前に、加須の騎西高校に避難していた双葉町民の方に向けた慰問演奏会を開催しました。その際、加須に勤めていた私がお手伝いをしたという経緯があります。
 地球市民クラブとは、その次の年度に、「キャリア教育」の一貫として、バングラディッシュのカレー作りのお手伝いをいただいたという繋がりもありました。カレー作りを教えてくださった方は残念ながら、今回はラマダンに入ってしまったということでいらっしゃらないのですが、今回の事をきっかけに、もっと、セドフさんや、「地球市民クラブ」と交流が広がればと思っています。
 先週のジョイフルブラスに続いての本物の演奏会。四年生だけに限定するのは本当に申し訳ないと思いますが、限られた教育課程の中で、四年生にも無理を言って入れ込んでもらっているという経緯もあります。「本物」「プロの芸術家」に触れさせたいという校長の我が儘でしかないとも思いますが、どうか、重ねてご理解をいただきたいと思います。
 演奏後、校長室で給食を召し上がっていただこうと思っています。招請の費用は、「魅力ある授業づくり」の一貫としてまかないます。


新校長室だより
 わかば第六十六号
  平成二十九年六月二日(金)

 陸上大会お礼
 陸上大会へ向けての指導ありがとうございました。おかげで子どもたちが持てる力をしっかり発揮することができました。雨が心配されたのですが、体育主任の先生方の迅速な働きで、途中一回待機の場面はありましたが、スムーズに進行することができました。
 私が閉会式の指導講評でしたお話を中心にここに記します。閉会式では、二つの感じたことと、一つの激励を話しました。
 感じたことの一つ目は、代表選手達の態度がとても良かったこと。閉会式が始まる前に、朝礼台前に整列ししばらく体育座りで待つ場面があったのですが、どこの学校の代表選手もおしゃべりせずにきちんと待っていました。各学校の代表という自覚と責任をしっかりと感じながら参加していたように思いました。特に第二小学校のN君が高跳びの新記録に挑戦するときに、学校の枠を越えて、会場のみんなの気持ちが一つになって、ため息を漏らしたり、大きな拍手が生まれたりしました。記録を伸ばそうと同じ思いで挑戦してきたからこそ、N君と心が一体になっていたのではないかとさえ思いました。
 二つ目は、杉戸町の子どもたちは幸せであるということ。各競技を見ていて、それぞれ感心させられたのはそのきれいなフォームです。高跳びのバーの越え方、ハードルのまたぎ越し方、ボールの投げ方、走り幅跳びの跳躍の仕方、着地、走るホームもどれもきちんと指導されていることが感じられました。それは、杉戸町の小学校の先生方の指導力が高いことを表しています。ですから、そういう先生方に指導されている杉戸町の子どもたちは幸せであるということです。安心して、明日からも体育の授業に取り組んでくださいと締めくくりました。
 最後に、子どもたちへの激励です。今日は一日一生懸命がんばった。しかし、今日だけがんばったのではない。今まで一生懸命がんばってきたからこそ、今日がある。今日は終わってしまうけれど、実は、もう、六年生は来年中学生になったときの新人戦のための日々が始まる。四年生五年生は、明日から、もう、来年の陸上大会の練習が始まっていると思って欲しい、そして、一日一日を大切に、目標をもってしっかりがんばって欲しい。
 というようなお話をしました。特に、二つ目に話した内容では、会場の先生方にお礼もいたしました。口だけのお礼ではお礼にもならないかも知れませんが、せめて、保護者の前で讃えてさしあげたかったのです。
 女子の総合優勝もすばらしかったのですが、六年男子のリレーも四位に入ったことがうれしく思いました。なにしろ、昨年は六位だったのです。一年間でこんなにも成長したことが感じられたからです。子どもたちのよろこびはひとしおでしょう。先生方ご指導ありがとうございました。 


新校長室だより
 わかば第六十五号
  平成二十九年六月一日(木)

 基礎・基本
 自己評価シートに「基礎・基本を身につけさせる」等の記述はいらないと、先日お話ししました。当たり前だからです。私たちはその先にあるものを目指していかなければならないのです。しかし、基礎・基本は大切です。家で言えば土台、それこそ基礎。最近の新築家屋は「布基礎」といって、土台だけでなく、家の下の地面を全部コンクリートで覆ってしまうスタイルもあります。これだと、地面下からの湿気を防ぎ、シロアリの予防にもなりそうです。あ、関係なかったか。
 学ぶ方の基礎・基本は活用を通して習熟を図ることができますが、指導する側の基礎・基本は、学ばないといつまでたっても分からない。例えば、理科。中学年では「関係づけて考える」、高学年では「条件をそろえて調べる」という見方・考え方が基本となります。このことが分かっている場合と、分かっていない場合では、子どもたちへの発問の仕方も違ってきます。
 算数でも、子どもたちが、何をどのように学んできているのか、学習の履歴や、今後の指導系統が分かっている方と、分かっていない方では教え方、学ばせ方がまるっきり違ってくるでしょう。だからこそ、教材研究は重要なのです。その教材研究をしていて、「おぉ、なるほど!」と発見や気づきがあったらしめたもの。子どもたちの学ぶよろこびに通じるものがあります。まさに、教師が楽しくなければ、学ぶ子どもたちが楽しいわけがない、ということでしょうか。
 体育では、マット運動や跳び箱運動は、「腕支持」が基本となります。柔軟性にも目が行きがちですが、腕で体重をささえる経験は、現代の子どもたちは乏しい状況です。腕立て伏せさえもできないかも知れない。試しに、体育の時間、腕立ての姿勢で三十秒間、動かずに絶えられる子が何人いるでしょう。試してみてください。びっくりしますよ。
 さらに、前転・後転。しっかりと腕で体をささえる意識がないと、なんと、肘や手の甲でまっとに触れて回る子さえ出てしまう。そうならないためにも、低学年のマット遊びで、十分に手のひらで体重をささえる動きを重ねるのです。ジャングルジムや雲底、登り棒などにも通じます。こうしたことが、握力につながるのです。遊具侮るなかれです。
 教科の学習以前にも、押さえておかなければならない指導の基礎・基本があります。学習規律もそうですし、ノートの取り方、板書の写させ方、発問への答え方「~です。」「~と思います。」。こうしたことがきちんと押さえられていないと、自己流の荒削りな指導と言われかねません。ノートなど日々、目を通すようにしていないと、高学年になって、算数と理科と社会のノートが一緒なんてことになってしまいます。ノートを忘れたときには連絡帳を横にして、使わせました。保護者へノート忘れを連絡する手間も省けます。

 


新校長室だより
 わかば第六十四号
  平成二十九年五月三十一日(水)

  序数と基数
 算数に躓きが見られる子は、「数」というものを、順序での概念の「序数」としてしかとらえられていない傾向があるように思います。ですから、簡単な一桁の足し算にしても、指を順番に折りながら「いち、にい、さん、・・・」と、数えていく。これは、ちょうど、アルファベットの「f」は「a」から数えて何番目という感覚と同じです。「3たす2」という簡単な計算だって、「CたすB」と同じなのです。「CたすB」は、指を折りながら、「A、B、C」と数え、次に「A、B」と順番に指をおってたす。それから、折った指を順番に「A、B、C、D、E」と、数えていく。そして、「E」という答えに結びつける。
 見方を変えるとサイコロの四や、六の目だって、順番に数えないと認識できない状態です。そんな、バカなことがあるかと思われる方もいらっしゃるかも知れませんが、かつて、「数」という概念そのものが怪しかった文化さえ、近代にあったのです。
 それは、北海道土着の文化の中にあったと伝えられています。そこでは、「3」以上の数は「たくさん」としか認識できなかったそうです。そこに目をつけて、地元民の取ってくる、毛皮や、魚をただ同然の値段で巻き上げていたのが松前藩でした。「3つ」とか「4つ」など、現物の獲物があっても、もともと、2つまでで十分な生活をしてきたからこそ、それよりも多い数は「たくさん(多すぎ)」としてしか認識しなかったのでしょう。
 現代の子どもたちも、基数としての「数」の概念に触れることが乏しい中で生活しているように思います。私の子ども時代のような昔であれば、ビー玉を何個取ったとか、メンコを何枚儲けた(あるいは取られた)など遊びの中に、基数としての「数」があった。花いちもんめや、草野球の中にも基数としての「数」の文化がありました。
 今の子どもたちは、買い物にしたって、計算はレジがやってくれるし、お金をもともと持たない子もいる。ゲームも、ゲーム機が勝手に得点を計算していく。そんな生活で「基数」の概念が抜け落ちるのは当然なのではないかと思えてきます。
 ○や点を四つか六つ描いて、「いくつかな?」と聞いたとき、指を指しながら数え始めたら間違いなく「序数」としてしか数を理解していないのです。ぱっと「よん!」とか「ろく」って言える子にしていかないと、困ったことになります。九九は暗記ですから言えたとしても、繰り上がり、繰り下がりの足し算引き算がいつまでたってもできません。
 ただ、それも学校生活の中だけの問題なのかも知れません。AI技術の飛躍的進展で、生活の中の計算は全て機械がやってくれるようになるかもしれないからです。しかし、それでも、およその数での見積もりを人間は把握しなければなりません。やはり、生活でも困った場面は出てくるでしょうね。

 


新校長室だより
 わかば第六十三号
  平成二十九年五月三十日(火)

  本物・実物の魅力
 土曜の学校公開、ありがとうございました。緊張の中にも、保護者と学校との距離が近くなったように感じました。近すぎて、廊下では小さな子が騒いだりしている困った状況もありましたが、先生方が一生懸命子どもたちを活躍させたり、板書を工夫して、普段こんな授業をしているというデモンストレーションをしていただきました。信頼度がアップしたのではないでしょうか。
 また、ジョイフルブラスのコンサートの準備や片付け、六年生が自覚を持って進んでやってくれて、ますます頼もしく思いました。ジャズや、サンバといった、子どもたちにはやや難しいかとも思ったのですが、手拍子や代表の参加場面、一緒に合唱する曲などが盛り込まれ、音楽の楽しさに浸ることができたのではないかと思います。後半、低学年でざわついていた部分はありましたが、それは、個人や年齢的に難しい部分もあり、しょうがないかとも感じます。ただ、飽きてしまったかも知れない子にとっても、本物のもつ迫力だったり、臨場感というものに触れることができたのは収穫であると思います。
 ICTの進展で、ARなど、疑似体験や超高画質の画像など、ますます、様々な映像や動画に触れる機会が増えていくでしょう。しかし、だからこそ、これまで以上に本物や実物に触れたり、実際に体験してみることの大切さを思わずにいられません。私自身を振り返ると、本物のコンサートに行ったのはフォークグループの「ふきのとう」やブレイク直前の「アリス」でした。もう高校生でした。ジャズもちょうどその頃、秋吉敏子&ルータバキンのビッグバンドが新潟に来て、聞きに行ったのを覚えています。
 本物に触れることは「感性」を育てることに直結すると思います。映像や写真では得られない、「匂い」だったり「温度」や「空気」を同時に体験するのです。友だちと一緒であるという「共通体験」も社会的成長には欠かせないものであると考えられます。計算や漢字ドリルをやっているだけでは得られない貴重な「感性」につながります。
 昨年度末、本校の金管楽器のクリーニングを買って出てくださった、保護者二名は、開演前に、金管楽器について熱心に演奏者に質問もし、また、答えていただいていたようです。あらかじめお話を聞いていたので、マネージャーさんにお願いしておいたのは言うまでもありません。

 


新校長室だより
 わかば第六十二号
  平成二十九年五月二十七日(土)

  燃えている
 昨日の教頭先生の日報にもあったように、学校評議員の元校長先生から「今、高小は一番燃えているよね。」というお話がありました。一瞬、「萌えている?」と思いましたが、「活気があると思うよ」とたたみかけられたので、あぁ「燃焼の方だ。」と確信しました。勢いがあるということではないかと頭の中で変換。それは、先生方一人一人の頑張りのことだと結びつきました。子どもたち一人一人を活躍させようとしているし、授業を大切にしてくださっているし、学習を理解させようとしている。そして、子どもたちが笑顔だったり真剣な目つきだったりと表情豊かに学習に取り組んでいる様子からも分かります。
 授業中の教室に入ると、直ぐに「雰囲気」でそのクラスの文化や風土、まとまりといったものを感じることができます。ごみが落ちているとか、ロッカーが乱雑であるとかそういったことではないのです。子どもたちが醸し出す「空気」と言ってもよいかもしれません。居心地の良さとも言えるでしょうか。自分が小学生だったら、このクラスいいなぁ、とどの学級を訪れても感じることができるのです。
 ときには、厳しく叱責する声も聞こえることはあります。しかし、荒っぽい言葉が少なくなったように思うのは、校長としての手前味噌かも知れません。「厳しくしなければならないときは厳しく」とは私がお願いしたことですし、「荒っぽいのはやめてください」ともお話ししました。 評議員会で、今年度の重点目標や、努力目標、スクールプランを説明することが、「説明責任」という事だけでなく、再度、私自身が確認するチャンスにもなったように思いました。その中でいただいた「燃えている」の言葉。その炎は、チロチロなのでしょうか。はたまた、赤くメラメラとしているのでしょうか。もしかしたら、種火程度のものもあるのかも知れません。
 それぞれの先生方の思いが、合わさり、相乗作用で、陸上の練習指導に向かい、今や、その炎は、キャンプファイヤーのように、子どもたちを明るく輝かせているようにも思います。そして、先生方の熱は、子どもたちの頬や瞳に伝わり、心までじんじんと暖かくしてくれているようにも思います。
 昨日は肌寒い日でしたが、二年生は雨の中、町探検に行ってきました。私もラ・パンさんにご挨拶がてら見学に行きましたが、子どもたちが、一所懸命三橋さんに質問している様子に、それまでの先生方の熱い指導を感じました。
 今日は学校公開日。よろしくお願いします。 


新校長室だより
 わかば第六十一号
  平成二十九年五月二十六日(金)

(昨年度のサルベージ記事です)
 インサイドアウト
 経験を積んでくると、痛いほど分かってきますが、他人の考え方を自分の思い通りに変えることはできないものです。できることと言えば、チームとしての立場で協力を仰ぎながら、考え方を変えてもらうのではなく、「やり方」を変えてもらうことぐらいです。そもそも、相手が子どもであれ大人であれ。「人をコントロール」しようとする意識に間違いがあるのではないかと思います。だいたい自分自身でさえも、自分の思い通りにコントロールできないと感じることも。「夕べは飲み過ぎたな。この気持ち悪さは何だ。もう二度と飲むまい。」と朝のうち思っていても、夕方が近づきお日様が西の彼方に沈みかけると、そわそわと缶ビールの数を冷蔵庫で確かめてしまう。そんなことだから、よもや他人をコントロールするなんてとんでもないことです。逆に考えると、自分自身をコントロールすることの難しさを知らず知らずに感じているから、回りをコントロールしようとしてしまう、悲しい人間の性(さが)です。「立ってるものは親でも使え」とも言います。終いには、「愛するものの言うことなら喜んで聞くけど、なんでアイツの命令を聞かなければならないんだ!」と怒りを生み出すことにもなりかねません。
 他人をコントロールしようとする無駄な努力はやめ、自分自身をその場にふさわしい振る舞いができるように操縦するしかありません。難しいことでもありますが、自分自身のことなので不可能ではないのです。それがインサイドアウトです。回りを変えるのではなく、自分が変わるのです。自分だったら自分の意思で変えることができます。ただ、私たちはプロの教師として、好ましい人間関係づくりができるように、学級集団をコントロールすることはできます。しかし、気をつけないと、「仮想敵」を作って集団をコントロールしようとする政治的操作になってしまいます。翻って、むしろ、そういう操作をされないような批判的思考力も育てていかなければなりません。
 内政問題を,外交問題化し、目をそらした隙に、誰がうまい汁を吸っているのか。冷徹に見ていくためには、たくさんの情報に触れていくことも大切ですし、そこに、誰の利益になるのかという視点で見直すことも必要になってきます。(今日、難しいですね。世界を語っている。)

 


新校長室だより
 わかば第六十号
  平成二十九年五月二十五日(木)

  アサーティブな力
 ソーシャルスキルの一つに「アサーション」があります。平たく言うと、相手に反感を持たれないように、自分の主張を通すこと。日本人は文化的にこうした力を培ってきたのではないかと思います。自己主張すること自体が不得意でないからこそ、相手を気遣いながら、こそっと主張する。政治家の「前向きに検討します」とか、「善処します」なんてのも「やらないとは言わないけど、直ぐにはできないよ」という日本的な婉曲表現。
 政治家的なものは、敬遠されますが、五年生の算数の授業で、「N君の言いたいことは分かるけど、○○は△△だから、これは比例しているとは言えないと思います。」というS君の発言。いやぁ、びっくりしました。相手を全否定するのではなく、尊重しつつ、自分の意見を述べる。そうすれば、自分に反対の立場を取っている相手も、自分の意見に耳を傾けてくれる。まさにアサーティブな発言をしていたのです。
 AC広告機構のキャンペーンに「柔らかい心をもちましょう」というのがあります。テレビやラジオで時々見かけたり聞いたりします。


セトモノとセトモノと
 ぶつかりっこするとすぐこわれちゃう
どっちかやわらかければだいじょうぶやわらかいこころをもちましょう
そういうわたしはいつもセトモノ

 最後の、「わたしは、いつもセトモノ」ってところに、実は多くの方々の共感を生む部分があるように思います。私自身もそうです。
 アサーティブな対応は、もしかしたら、基本は「大和心(やまとごころ)」なのではないかと思うことがあります。人を説得するときに、とかく私たちは「理屈」を通そうとする。そうした理屈が基本の「唐心(からごころ)」に、文化的に不慣れな私たちは、ついセトモノになってしまう。
 大学の時に学んだ文化人類学で、「欧米、特に英語圏の人たちは、激しく議論したあとでも、休憩時間になると、ケロッとして仲良く過ごすことができる」と聞きました。それに対して、日本人はどうしても議論に感情が入ってしまい尾を引く。以心伝心の国、「大和心」がそうさせてしまうのでしょう。
 ところで、先の五年生の授業、「ここまで育てるのに一ケ月かかりました。」とのこと。私だったら一年かけてもできないかもしれません。

 


新校長室だより
 わかば第五十九号
  平成二十九年五月二十四日(水)

  引き渡し訓練
 先週は引き渡し訓練の実施ありがとうございました。子どもたちの避難の様子も静かに落ち着いてできたと思います。日差しの強い日だったので、引き渡しが素早く行われるよう、私の挨拶もできるだけ短くいたしました。先生方のご協力で、スムーズに保護者に渡すことができました。
 ここで、確認しておきます。本校では「震度五弱以上」で、在校中の児童は、保護者または、引き取りを依頼された方が迎えに来るまでは、学校で保護する事になっています。震度四までなら、通学路等の安全を確認後に通常の下校となります。
 では、震度五弱以上で、登下校時はどうなるか。本校のマニュアルによれば、①近くの安全な場所等へ一時避難する(友人宅・知人宅・ホッとハウス等)②状況を見て自宅へ帰る(可能であれば自宅へ連絡)となっています。ただ、子どもたちは震度がいくつかは分からないと思いますので、この場合、われわれ職員が地区巡視を行うことになっています。自宅へ戻ることができない児童は、学校へ避難誘導してください。
 次に、震度五以上で、児童が家にいた場合。①各家庭で対応。②翌日からの登校については、安全が確認され学校から連絡があるまでは自宅待機。と、なります。連絡はメール配信にて行います。
 ホッとハウスへの避難については、現実的に、一昨年、雷雨の時に避難させていただいたという実績もあります。子どもたちが自分の判断で避難したということです。こうしたことも、普段先生方が指導してくださっているおかげです。ありがとうございます。
 ただ、一点だけ、気になっているのは、結構、しょっちゅうトイレを借りに来る児童もいるということです。下校前に、我慢できなくならないように、用便をすますよう、ご指導いただければ幸いです。よろしくお願いします。
 今後大きな地震は、間違いなく起こります。それは、まだ、予知というものが確立されていませんが、地質学的には、来ることは確かです。プレートテクトニクスで、動くプレートの上に日本列島が乗っかっているからです。おかげで、ハワイも年間二㎝ずつぐらい、日本に近づいているという話を中学生の頃読みました。ハワイに泳いで渡れる日もいつかは来るのです。いや、そんなことより、地震対策です。

 


新校長室だより
 わかば第五十八号
  平成二十九年五月二十三日(火)

  家庭・地域の教育力
 「家庭・地域の教育力の低下」という言葉が一人歩きしているように思います。地域によっては、本当に、言葉通りになっているのかも知れませんが、高野台小学校の保護者に関しては、あまりそう感じません。おそらく、本校の保護者の皆さんは、「家庭の教育力」と言ったときに、「うちは塾や習い事をさせていますし、宿題も親が見ています。」なんて方はいらっしゃらないと思うからです。
 なんで、こんな当たり前に思えることを記すのか。他地域では、「家庭の教育力」というものが「しつけ」や「道徳性の涵養」と乖離して理解されつつあるような気がするからです。人の嫌がることをしない。他人に迷惑をかけない。挨拶をする。人に何かしてもらったら「ありがとうございます。」ときちんとお礼を言う。これが家庭でのしつけであり、家庭教育力でしょう。
 文部科学省では、家庭教育は、「すべての教育の出発点であり、子どもが基本的な生活習慣・生活能力、豊かな情操、他人に対する思いやりや善悪の判断などの基本的倫理観、自立心や自制心、社会的なマナーなどを身に付ける上で重要な役割を果たすものです。」としています。
 前述したように、「家庭教育」を「家庭での教科学習指導力」と勘違いしている親世代が、少なくとも、日本のどこかの地域には出始めているのかも知れません。少子化とそれに伴う核家族化が進行すると、家庭教育の伝承が薄れてしまいかねません。
 子どもの成長をみんなで喜び合うこと自体も「家庭教育力」の一つであると私は考えます。その「みんな」が、父親と母親だけだったり、場合によっては母親オンリーになったりする(うちの場合そうでした。息子ごめん。ただ、ごく近所に祖父母と叔母が住んでいて、そこが個人的保育所でしたからセーフかな)。
 高野台地区でも、核家族化は進行していると思いますが、登校見守りボランティアの方は以前より増えています。下野の五叉路は、Wさんだけでなく、Fさんを始め、たくさんの方が見てくれています。高野台でも昨年度から、SさんとOさんが見てくれています。地区全体が家族のようにお互いを見ている状況は、本当に有り難いと思います。
 ただ、こうした中で、地域が開かれている中にあって孤立してしまいがちな家庭もあるかも知れません。そういう家の子こそ、学校が発見し、なんとか、学校を拠点としてネットワークに参入してもらうよう働きかけることも、今後は必要になってくるのかも知れません。そうなると、「学校」も学習指導以外の「家庭・地域の教育力」の一部となってくるでしょう。

 


新校長室だより
 わかば第五十七号
  平成二十九年五月二十二日(月)

  秋田の学力
 秋田県の小学校の様子の一部をテレビで見ることができました。テレビですから、ホンの一面であることは否定できませんし、それが全てであるとは言えません。しかし、参考になることや高小の先生方の取組と一致している部分もありましたので、あえて、紹介します。
 ①宿題
 宿題は、自分で課題を考えるものが中心。与えられたドリル学習はごく一部。自分で何を学習すれば良いのか考えて実行する。大阪からの教育留学の小学生が一番苦労した部分のようでした。これは、本校の家庭学習の手引きを本格実施している先生方の取組と同じです。やらされる学習ははげ落ちるということでもあると思います。
 ②授業の学習課題
 算数の授業の一部を見ることができました。その板書は、問題文から導き出された学習課題が明記されていました。(順序も工夫されていました)その「課題」は、『~を考えよう』ではなく、『~にはどうすれば良いだろうか』でした。私はこの部分はとても重要だと思います。算数関係の研究会の指導案を見ると『~を考えよう』がたくさん見られます。「課題解決型」と言っておいて、「解決すべき課題のない課題」と言われてもしょうがない「課題」です。これこそ、われわれ埼玉の教員が解決しなければいけない「課題」なのではないかと思います。「考えよう」では、「(解決できなかったけど)(何を考えれば良いか分からなかったけど)(どのような理屈や道筋か分からなかったけど)考えました」でも、論理的に許されてしまうのです。
 ③グループ学習
 五人組でした。(一説では四人がベストだと言われていますし、私もそう思っています)与えられた課題に対してグループで話し合い、解決をめざしていきます。話し合いが課題から逸れたり、脱線したりすると教員が入って軌道修正します。ですから、教員は、ぐるぐると話し合いの様子を観察しています。この辺も高野台小の取組と一緒です。
 ④一斉学習
 四年生の学級の一斉学習の様子。いつもそうなのだとは言えませんし、テレビクルーが入っているという特殊状況ではあったものの、発表する子がいるのに、隣の子とおしゃべりしてふざけている子がいました。先生も気づかないのか放っておくのか注意していませんでした。撮影のあと、厳しく指導されたのかも知れません。
 テレビやマスメディアというのは、特殊事情を一般化するマジックを持っていますが、何か参考にはなると思ったので記してみました。

 


新校長室だより
 わかば第五十六号
  平成二十九年五月十九日(金)

  可視化
 「心は見えないが、心遣いは見える」JC広告機構で全国的に有名です。人間の心や、考えていることは見えない。だから、行動に表すことで具体的に見えるようになる。ということですよね。
 ゆとり教育の転換を図り始めた、前回の指導要領改訂から、県でも、「三つの達成目標」なるものを始めました。(中略)学力向上策に「授業に力を入れていきます。」だけでは、目に見えない。目に見える形で、「各学年で、○年生はこうした問題を取り組ませ、基礎基本を85%以上達成させます。」ということなのです。

 (中略)どこの学校も「帯時間でドリルタイムを行っている」中学校では、「英語コンテスト」を行っている。という、目に見える提案が殆どでした。授業はどこに行ったの?という素朴な疑問は、ホンの一握りの参加者だけでした。しかし、授業改善が主流になってくると、文科省からの「授業を変えてください」というメッセージの全国学テが始まり、慌て始めるという状態。
 「はい、○ページ開いて。問題読める人。はい、読んで。式が言える人。はい、答えて、答えはどうかな。はい、分かる人。はい、説明して。」という授業を実際に見たことがあります。これじゃあ、指導計画よりも早く終わります。一部の分かる子だけで授業が進んでしまう。
 本校のように「全員参加型」の授業を推進するというのは、大変なことですが、一人一人の子どもたちの自己肯定感を補強し、人格形成に結びつきます。そのためにも、「思考の見える化」が大切ですし、指導する側も、授業のねらいなり目標なりを、板書し明確にする。また、全員参加ですから、少なくとも、「振り返り」の活動を少なくとも一日一回は行う。こうしたことも「可視化」につながります。
 昨日の「高小ウォークラリー」でも、普段は見えない「子どもたちの自覚と責任」を見ることができました。終盤の時刻にさしかかっていたとき、六年生のO君が「よし、急ぐぞ、みんな水筒をよこせ。」と、片手に四~五本、チームの中低学年の子達の水筒を持ってあげたのです。また、同じチームの五年生のC君は「ぼくが持ってもらうわけにはいかない。」と高学年としての自覚ある発言をしていました。心は行動に表れる。身軽になった定中学年の子達はうれしそうにゴールをめざしていました。

 


新校長室だより
 わかば第五十五号
  平成二十九年五月十八日(木)

  奇想
 先日、東京都美術館に行ってきました。ブリューゲルの「バベルの塔」展がお目当てでした。常設展示は無料ですが、企画展は一般千六百円。ちょっと財布からため息が出そうでしたが、とても内容の濃い、料金以上の企画展であると思いました。
 事前に何の知識もなく、ただ、むかし「バビルⅡ世」って横山光輝のアニメがあったなぁ、ぐらいの認識でしたが、その内容に圧倒されました。
 「バベルの塔」そのものも、圧巻なのですが、企画展ではブリューゲルに至るまでのネーデルランドの画家の系譜を順を追って展示しているのです。宗教画を描くのが画家の仕事の基本であった一五世紀から農民や風景を描く者が出てきて、絵そのものに奇想を採り入れたヒエロニムス・ボスという画家が輩出される。その流れがブリューゲルの「バベルの塔」の感性や完成に関わっていることが素人には感じられました。
 「奇想」とは、奇抜な発想といえます。写実主義の中で、縮尺をあえておかしくした技法や、あり得ない構図や空想上の登場人物。まるで、日本の鳥獣戯画も見ていたのかと思われるような絵や、水木しげるの妖怪漫画の原点かも知れないと思わせる作品や、描写が見られます。
 ところで、こうした奇抜な発想というのは、先日ここで話題にした「汎用的能力」の最たるものかも知れません。「感性」という部分です。将来、AIが意志決定をするようになっても、あるいは「感情」を持つロボットが出てきたとしても、およそまねのできない人間固有のものではないかと思うのです。(思うだけですから、根拠もありません。)
 さらにですねぇ、バベルの塔のお話は、昔、人間が一つの言語をしゃべっていたので、天にも届くような神をも怖れない塔の建築をしたことに由来しているそうです。そのため、神が怒って、人間の言葉をばらばらにして、協働で大きなことをできにくくした。だから、スペインのサクラダファミリアのように建築途中なのだとか。
 それでも、人間は神を怖れず、月までロケットを飛ばしたり、太陽系外に無人探査機を飛ばすようになっている。このような「神でも制御できない部分」に人間の「汎用的能力」はあるのではないでしょうか。
 ちなみに、都美術館近くの東京芸大ではコラボ企画でStudy of BABELをやっていて、こちらは無料。芸大生がバベルの塔の精密な立体模型を創ったのです。小さな展示ですが、見応えあります。

 


新校長室だより
 わかば第五十四号
  平成二十九年五月十七日(水)

  体験活動
 月曜日、五年生の田植え体験がありました。やや肌寒い中でしたが、かんかん照りよりも具合が良かったように思います。空気の冷たさに比べて、水や土の中の温みも感じることができたのではないでしょうか。こうした体験は「こうなんだよ」と言葉で教えただけでは「ふ~ん」ってだけで、伝えることは難しい。実際にやってみて、自分の肌で感じることの大切さは、映像では伝わらない。おしりごと田んぼに入ってしまった子が数名いたようですが、命に別状がない限り、それを体験できたことは貴重かも知れません。温水シャワーが使えれば、全員が、泥の中でどろんこ体験してもいいようにも思います。(シャワーの前に、泥を落としたりする作業もあるから、結局無理でしょうけど)
 さらに、体験したことを「やってみた」で終えるのはもったいない。そのときの感触を言葉で伝える工夫をさせる。温度も考えさせる。また、現代では手植えではなく、機械がさっさとやってのける現実と、半世紀前には、隣近所の農家の人々が協力して植えていたことにも触れ、その両方の良さと問題点を考えさせる。
 と、ここまでで、国語、理科、社会と教科横断的な取り上げ方になります。もっと欲を出せば、一平方メートル当たりに植えた苗の数から全体の苗の量を求めたり、一株あたりの米の収穫量から、全体の収穫量を求める。逆に全体の収穫量から一株あたりの米の量を求めさせる、という算数にも使えます。
 近所の農家総出で田植えをしていた頃には、リズム良く手順をそろえたり、集中力を長続きさせるための田植え歌があったりする。算数だけでなく、音楽にも発展させることができます。八十八夜にも触れることも可能でしょう。
 田植えは、昨年度に引き続き、農協さんが手伝ってくれています。農業だから手伝うのが当たり前ということではなく、企業として、社会貢献活動の一環なのだと思います。一般企業も利益優先だけでは存在意義が薄くなってきています。ISO14,001などのように、企業価値の中には「社会貢献活動」も入っているのです。
 今回の田植えが、田んぼを貸してくださった須田さんや、教えてくれた農協さん、そして、駆けつけてくださったU先生のお母様、さらに教えていただいた子どもたちのどちらにも有益であることが、体験活動を続けていく鍵になると思います。そして、今後の体験活動にも参考にしていただければ幸いです。

 


新校長室だより
 わかば第五十三号
  平成二十九年五月十六日(火)

  新学習指導要領
 今年三月に、新しい指導要領が文科省のHPにアップされました。ご覧になった方もいるのではないかと思います。12月に改定案が公開され、話題になっていました。その中では、「鎖国」をやめるとか、聖徳太子の記述をやめる、といったようなことが新聞紙上でも取り上げられました。しかし、パブリックコメントが集まる中で、鎖国はそのまま継続、聖徳太子も現状通りとなったようです。
 前々回の改訂のときでしたか「円周率が3になる」という誤った新聞記事が一人歩きしたことがあり、いまだに、「円周率は3じゃないんですか?」という保護者や子どもがいます。しかし、あの改訂の本質は、「必要に応じて3を用いることができる。」という記述でした。つまり、およその円周を求める場合や、小数第二位を学んでいない段階では、円周を求める計算はできない、などの特別な理由がまったく無視されてしまったのでした。
 二十年を経ようとしているのに、いまだに「円周率は3」の誤解がまかり通っていることに、マスコミの恐ろしさを感じます。今後「鎖国はなくなったんですよね」とか、「聖徳太子って昭和の時代の幻ですよね」など、まことしやかに言われ続けるような気がます。しかも、そうした記事を読んでいる方って、割と知的レベルの高い方だったりする。でも、実際の学習指導要領を読んでいない。ジャーナリスティックな知識のみで語られたりするので困ったものです。
 さて、今回の学習指導要領ですが、総則には、
「児童の発達の段階や特性等を踏まえつつ、次に掲げることが偏りなく実現できるようにするものとする。
(1)知識及び技能が習得されるようにすること。
(2)思考力、判断力、表現力等を育成すること。
(3)学びに向かう力、人間性等を涵養すること。」
 とあります。学習評価をする場合の観点の根本と言えます。
 また、総合が始まった頃、「特別活動ではないから、修学旅行の調べ学習を総合なんてだめ」なんてよくいわれたものですが、学校行事を総合で行っても良いというような記述も見られます。「教科横断的」な学習を求められていたのだから、これでようやく正常になるのではないかと思います。


新校長室だより
 わかば第五十二号
  平成二十九年五月十五日(月)

 汎用的能力
 本校の研究推進で度々話題に出てくる「汎用的能力」。具体的には何かと一言で答えられないですよね。調べてみると、文科省のHPから次のようなものが出てきました。
・コミュニケーション能力(特に聞く力)
・粘り強さ(ディシプリン-鍛錬-に通ずる)、我慢(継続)
・自ら課題を発見し、解決を図る力、自ら目標を立て、行動する力
・変化や未知の問題への対応力
・仲良くする能力(協調性)
・論理的な思考力
・段取りを組んで取り組む力
 どれも、大切な能力だと思いますが、ちょっと違う切り口から考えてみましょう。「汎用的」の対義語は「専用的」。では、人間に「専用的な能力」ってあるのでしょうか。もちろん、計算や経理に秀でた力を発揮する人はいるでしょうし、セールストークが上手で人を惹きつける能力が高い人もいます。しかし、そうした人たちは、それ専用の力しか持っていないわけではない。経理の人も、組織の一員として部下をマネージメントすることも必要になるし、営業の人だって、計算して今期の決算をしなければならない。
 ざっくりとした例ですが、ここから考えられるのは人間はもともと「汎用的な力を発揮しながら生きていく存在」ということです。では、なぜ、「汎用的能力」なる言葉が生まれてきたのでしょうか。
 これは私見でしかありませんが、もしかしたら、ロボット工学やAIの世界から出てきたものなのではないでしょうか。溶接ロボット、塗装ロボット等、自動車工場を見学すると専用ロボットが活躍している場面を見ることができます。AIでも囲碁プログラムが人間のプロ棋士に勝つなど、その専門的な力を発揮します。
 では、逆に「汎用的ロボット」ってのができたとしたら・・・・。わかりやすいのは、私らの子どもの時のアニメ「鉄腕アトム」でしょう。アトムにはAIにおいても自分で判断する「汎用的能力」を備えています。空を飛ばないまでも、アトムのようなロボットが、身近になって友達のような存在で私たちの生活に関わるようになることは、もっともっと先の話でしょう。つまり、機械やコンピュータは、まだ、しばらく「専用」の力を発揮するだけ。
 今後、益々ロボットやAIが人間に成り代わって仕事をするようになることは容易に予想されます。では、人間に残された仕事は何か。ロボットやAIにできない、論理的なアルゴリズムでは発揮できないような対応が考えられます。それこそが育成を求められている「汎用的な能力」なのではないでしょうか。そう考えて、文科省の例を見直すと、なるほどなぁ、と関心すると同時に、もっとあるのではないかと思ってしまいます。
 知識やスキルなどの他に、人間的な「評判」や「信頼」というのも、機械の「性能」にはまねのできない、大切な汎用的能力ではないかと思います。


新校長室だより
 わかば第五十一号
  平成二十九年五月十二日(金)

大村はま著「灯し続ける言葉」より
 今日の新たな一滴が要るのです
 教師の仕事は、生きている子どもに生きた知恵を育てることです。そのためには、初々しい感動、新しい命のようなものが教師の側にないと、子どもを惹きつけられません。
 学者の方でしたら、研究を深める、高めるということでいいのでしょうが、教師の場合はちょっと違います。何度も読んだ教材、何度も感動した作品であっても、教室に持っていくときは、新しく加わった感動が必要なのです。今日の太陽が昇って、昨日の自分とは違う新しい自分がいる、そういう激しい成長力のようなものが子どもたちを動かします。これまで研究して蓄えていた智恵が、そこで初めて生きた力となって、子どもに伝わっていきます。
 人を育てるというのはそういうことです。積み重ねた努力、人柄の良さや、研究の深さ、子どもへの愛情、そういったもの何もかもを生かすには、今日の新たな一滴が要るのです。

 ボール投げの練習で、今までになかった方法で子どもたちが取り組んでいます。これも、「新たな一滴」と言えるのではないでしょうか。子どもたちに力をつけさせるために、あらゆる方法を試してみる。だからこそ、子どもたちも素直にチャレンジする。見ていて感動すらします。
 ハードル走でもスズランテープや、先生方の手で低い姿勢を保持させようとする。体育の授業研で「障害走」に取り組んだときのことが思い出されます。いかに効率よく、運動量を確保しつつ、めあてをもたせ取り組ませるか。なおかつ、教師は子どもたちの様子をしっかり見て、指導の言葉がけをしなければ授業とは言えない。そこで、当時廉価のMSXパソコンにプログラムを組んで、十秒ごとにポーンと鳴るアラームを設定。それをスタートとゴールにおいたスピーカーから同時に流す。
 まだ、指導案さえ、手書きの時代でしたから、コンピュータを使った体育授業として、子どもたちも喜んで取り組んでくれたように思います。
 現代は、タブレットPCの時代。本校にはタブレットが三台もあるのです。体育に、あるいは陸上練習に活用しない手はありません。理科で屋外観察するときだって使えますし、それを教室で振り返ることも簡単です。
 なにも、新しい機器を使うことだけが「新しい一滴」ではありません。国語の学習を校庭で行うことだって可能です。視聴覚機器がますます発達する現代ですが、そういうときだからこそ「本物」の良さに触れることも、むしろ「新しい一滴」と言えるのではないでしょうか。

 


新校長室だより
 わかば第五十号
  平成二十九年五月十一日(木)

   うんこドリル
 連休中のテレビでちらっと紹介されていた「うんこ漢字ドリル」「うんこ計算ドリル」。爆発的に売れているそうです。ネットで調べてみると、ツイッターやSNSで拡散されている様子も分かります。考えた方は、子どもたちの興味関心や「楽しく学ぶ」ということがよく分かってらっしゃるように思いますし、よく考えているなぁと感心します。
 アマゾンで見たら各学年の漢字、計算とも、千五十八円。学校でよく使われているドリルの値段と比べて、やや高いかも知れません。教材屋さんがもってくるものは三学期に分かれている、一冊三百四十円ぐらいですから三学期分で千二十円。しかし、喜んで「うんこドリル」に取り組む子どもたちの笑顔を見ると、コストパフォーマンスは高いかも知れません。
 問題や例文が実に子どもの笑顔を誘い出します。例えば「返」という漢字の場合「かりていたうんこを返す」とか「いくらうんこに話しかけても返事はしません」「すてたうんこが気になってなんども振り返る」など、全て例文がうんこまみれ。答えを書く枠もうんこの形。括弧もうんこ型。徹底して「うんこ」なんです。
 子どもたち、特に低学年は、「うんこ!」って先生が叫ぶだけで教室中に笑いが起きます。どうしてなのかって徹底的に調べたくなるほど劇的に笑うんです。特に男子児童でしょうね。三年生ぐらいまでは女子にも使えるかも知れません。
 笑顔で覚えたものって長期記憶に残りやすいものです。逆に、嫌々練習させられたものは、すぐにはがれ落ちます。人間の脳は嫌なものは忘れるようにできているのです。
 例えば、痛み。おでこを柱にぶつけて「痛い!」となる。その痛みをずうっと覚えていて、感覚が続いているとすると激痛から地獄の思いをするかも知れません。しかし、現実は、徐々に痛みが引いて、痛かったことさえ忘れてしまいます。
 学習で嫌々やらされたことも、嫌な思い出はふたをすると同時に嫌々身につけた知識さえふたをしてしまう。逆に楽しかったことは、もう一回もう一回とやりたくなる。TDLのリピーターが多いのもそのせいでしょう。こうした人間の脳の仕組みを上手に生かしたのが「うんこドリル」といえます。
 ただ、四年生以上の女子にはどうなんでしょう。そろそろ、嫌悪感というものも芽生え始めると思いますので、ちょっと注意が必要かも知れません。男子にしても六年生ぐらいになっても「うんこ」をおもしろがる無邪気さは貴重ですが、もうちょっと大人になって欲しいものですよね。
 テレビでは本屋さんでは品薄状態が続いているとありましたが、アマゾンでは買えそうです。先生方、試してみますか?まずは、お子さんやお孫さんへのプレゼントとして?。(後日談:本校2年生の女子が持っていて見せてくれました。5月31日)

 


新校長室だより
 わかば第四十九号
  平成二十九年五月十日(水)

   コンプライアンス
 サッカーでJリーグが始まる前か直後だったと思いますが、こんなことが言われていました。「日本人は、信号機が赤というだけで、車も全く来ない横断歩道を渡らない。南米では、信号が赤でも、安全だと確認できればさっさと渡る。強さの違いはそういうところにある。」
 おそらく、瞬時の自己判断と行動が大切という意味合いなのかも知れません。しかし、自分の判断でルールを破れということではないと思います。逆に、信号が赤なら、車がいなくても渡らない程、法令遵守を実行している国だから、世界一治安がいいのだし、事件事故も世界一少ないのだと、私は思います。
 そのバックグラウンドは、八百万(やおよろず)の神を信じる国民性にあるのかもしれません。いわゆる「天知る、地知る、我が知る」や「お天道様が見ているよ」精神です。昨年、落語家は「トイレを借りると、借りる前よりきれいにして出てくる」という話をコラムに載せました。それも、「アイツが入ったあとの便所がきたねぇ。アイツが汚したにちげぇねぇ。」と思われたくないからというものです。他人の目も厳しいのだと、私たちはなんとなく知っています。そのトイレの話で言いたかったのは、「冷蔵庫の氷を利用して、製氷皿に補充もしない、忙しい方がいる。」ということでした。「忙しい」は心を亡くすと書きます。悲しい話です。誰かが製氷皿に、水を補充して氷にしてくれた。そういう善意さえ踏みにじってしまう。
 「心は見えないけど、心遣いは見える」と広告機構や、道徳の説話にもあります。ちょっとしたことで、心の油断や、荒さが出てしまう。それは、法令遵守精神にもつながるものです。私たちは公務員です。その服務の根本基準は地公法三十条に明記されています。
 さらに、三十一条で「宣誓」について書かれているように、採用時、宣誓をしたはずなのです。この宣誓の実行を担保しているものは、法令なのかも知れませんが、実は、八百万の神を尊ぶ国民性に裏打ちされた「信頼」しかないのではないかと思います。
 昨年度教職員事故が異常に増加したことを受け、コンプライアンスの徹底が求められています。「わかりました」というのは簡単です。でも、心の中で舌を出しているかも知れない。分かったのなら、可視化できる具体的な形で表すことが必要なのかと思っています。
 ハインリッヒの法則(1:29:300の法則)というものも昨年度紹介いたしました。「軽微なエラーは、その後の大きなエラーにつながる」というものです。このぐらい、ちょっとぐらい、まぁいいか。が重大なエラーの序章になっていく。そんなことにならないように皆さんで協力していきましょう。 


新校長室だより
 わかば第四十八号
  平成二十九年五月九日(火)

  連休明け
 みなさん、連休は、プライベートを満喫し、リフレッシュできたでしょうか。学校のことはほぼ忘れて、ご家族や大切な人と過ごしたり、ご自分の時間をゆったりと使っていただけたとすると安心です。
 自分は、例の風邪で憲法記念日は寝込んでいて、4~6日に新幹線で新潟に行って草刈りと除草剤散布、実家の掃除をしてきました。四日間とても良いお天気で、複雑な気分です。新幹線も混まない時間帯はがらがらです。
 4日の午後大宮からMAX(新幹線二階建て車両)に乗ったのですが、自由席の一階席でしたが窓側に座れました。通路側で我慢すれば、二階席も空いていたようです。でも、トンネルばかりの電車ですから、ゆっくりと読書にいそしむことができました。
 帰りは新潟を朝八時過ぎに出発するこれもMAXに。Uターンラッシュかも知れないと思い、指定を緑の窓口で購入。今回も一階席窓側。乗ってみたらがらがらなんです。おそらく、観光や帰省で新潟などに来られた方は、「お昼を食べてから、午後出発しよう」という人や、「家族でゆっくり夕飯を食べてから出よう」という人ばかりなのではないかと思います。私のように、せかせか、目的地から朝出発するというスタイルは珍しいのかも知れません。  
  連休が終わり、ちょうど新学期が始まって一ヶ月が過ぎます。連休明けのお休みや長期休業日明けの欠席は、不登校につながる傾向があります。警戒をよろしくお願いいたします。不登校の原因は何かと考えると、解決することの難しい泥沼に陥ってしまうことがあります。担任や校長のせい?ということが本当にあるのなら、そのクラスやその学校の子どもたちの殆どが不登校になっているはず。
「どうしたの?」「何があったの?」「何か嫌なことがあるの?」と原因を突き止めようとしていくと、「お友達が~」「通学班が~」など、日々ありふれた出来事をトラブルのように脚色して話してくれることがあります。そうすると解決が難しくなることも。
 それよりも、今か、少し未来のことに注意を向ける方が得策の場合が多いように思います。「今、どんな気持ち?」「今日は、このあと、何をして過ごすの?」「それが、今のあなたに最善の結論なの?」「どうしたらいいと思う?」などのように、原因を求めない。原因が仮にあったとしても、それをどう解決したいのか。解決とはどんな姿なのか、コミュニケーションを取りながら掘り下げていくことの方が大切です。
 くれぐれも、先生方も子どもたちも、体を壊して連休になったりしないようにお願いします。体調が悪いなと感じたらすぐにゆっくりお休みください。

 


新校長室だより
 わかば第四十七号
  平成二十九年五月一日(月)

   karoshi
 電通の過労死自殺の件から、問題になっている日本人の働き方改革。なんと過労死という概念は海外にはないそうです。概念がないということは、それに変わる言葉がないこと。そこで、残念なことにkaroshiが英語となって輸出されているのだとか。県の校長会の講演でそう聞いたもので、調べてみたら、英語で説明する意味でdeath from over workとありました。単語はもちろんありません。
 関連の記事を見ていたら、オーストラリアでは、「時間内に仕事を終えられないのは、その人の能力が低い」と見られる職業文化があるというような記事もありました。実際、以前、私も勤務先の校長にそう言われたことがあります。私の場合は、「いやぁ、本当にそうだなぁ・・・。」と納得しました。しかし、私より遙かに仕事ができる方が、やはり長時間働いている様子を見ると、そういう能力の問題だけではないと思います。
 埼玉新聞に出ているように、土曜日がなくなったこと、生活科ができたり、総合的な学習の時間ができたりしたこと。そんなことも私たちの仕事を増やしているのは事実です。土曜日がないのに、新しい教科ができて、まだ、生活科のときは教科書ができた。しかし、その活動内容が金太郎飴だってことで、学校毎実態に合わせた工夫が必要だってんで、総合では教科書がつくられなかった。国も県も市町村さえも、その課題解決は現場に任せる状態に。国や県がつくる手引きをもとに、現場が一生懸命カリキュラムをつくらなければならない。さらに、ゆとりの揺り返しで、土曜がなくなった分、余剰時間があるはずだからという、まやかしのレトリックでコマ数が増えた。さらに、八時間の勤務時間が七時間四十五分に減らされた。おそらく、毎日あった職員の朝の打合せ時間も取れなくなり、週一回に、それも、放課後に。そうこうしているうちに、英語活動が入ってきた。英語免許を持っていなくても担任が主導するという泳ぎ方を知らない人が水泳指導をするというようなことを強要される。指導要領改定で、知識理解も大切だけど「どう学んだか」ということが強調されて、指導法の転換も図らなければならない。それでいて、管理職からは、早く帰れと尻を叩かれる。
 「学力を上げなくていいんですか?」「中途半端でいいんですか?」と先生方の声が聞こえてきそうです。もう、この際、「学力よりも、先生方の心身の方が大切です。」と宣言しちゃいます。効率を最優先に考えて、優先順位を決め、やらなくてもいいかな?ってのはやらない。明日できることは今日やらない。持ち帰りの仕事も極力減らし、ご自分の時間を作ってみてください。
 静岡の研究校のように、留守番電話の導入も考えていきたいと思います。七時以降は留守電で対応などです。
 ああ、そんなことができるのかなぁ。がんばりましょう。 


新校長室だより
 わかば第四十六号
  平成二十九年四月二十七日(木)

 
  主催者意識
 学年だより、学級だよりの作成ありがとうございます。教育雑誌などの例文を使うと、何か通り一遍の似たような挨拶の文章になるところ、高小の先生方の文章はオリジナリティーがあっていいなあと、感謝しています。
 そこで、さらに、お願いしたいことがあります。行事予定など、学校(本校)学年・学級が行うものは「行われます。」や「始まります。」ではなく、「行います。」「始めます。」にしてはいかがでしょうか。その方が主催は誰か、はっきりできるように思うのです。
 そんな些末なことといわれるかも知れませんが、論理にはこだわっていただきたい。それは、学校はアカデミックなところでなければならないと思うからです。そんなことを書くと、「こだわる」の元々の意味は、良い意味ではないとおっしゃる方が出てくる方が自然です。ここでは、「ちょっとしたことにとらわれる。拘泥する。」の意味ではなく、現代的な「物事に妥協せず、とことん追求する」方の意味で捉えていただければと思います。
 そして、計画したのが安全部だったり、安全主任だったりしても、組織で実行するわけですから、主任が「やる」といったら主催者なのです。

(中略)

 あまりに平和すぎて、三月の始めに、その校長先生に「平和すぎておかしいですよ。何かきっとおこります。」と言っていたら、東日本大震災でした。これかぁ・・と思っちゃったほどでした。

 


新校長室だより
 わかば第四十五号
  平成二十九年四月二十六日(水)

   コスモス
 東門を入ってすぐの細長い花壇。Y先生がパンジーやノースポールを植えてくださった場所。チューリップもそろそろ終わりに近づいて、ハコベやナズナ、ホトケノザ、ヒメオドリコソウなどがはびこってきたのでちょっと、きれいにしてみました。すると、コスモスの本葉がいくつも出てきているのを見つけました。「やった!。」昨年度の種がこぼれて、咲いてくれているのです。蒔かなかったのに、自分で子孫を増やしてくれている様子にうれしくなってしまいました。「一つの花」が教材にある教科書を使っている学校で、コスモスがないのは寂しいと思い、昨年度、苗を種から育て、植栽したのでした。
 秋桜と漢字で書くコスモス。春の桜が終わり、もう秋の桜が準備を始めている。ところが葉桜になった本家本元の桜も葉の葉柄にもう来年の花芽を育てはじめています。子どもたちと、理科や生活科で野外観察を行うときにはぜひ教えてあげてください。また、桜の葉っぱの葉柄には蜜線のあとと思われる二つの出っ張りがあります。落ち葉を見ても、桜の葉だと分かる部分です。また、桜の落ち葉でたき火をすると、桜餅の香りがしてきます。スモークで燻製料理をするときには、桜チップを是非お試しあれ。
 ところで、「一つの花」という教材の他に、道徳教材で「一輪の花」というのもあります。こちらは、渋沢栄一翁の伝記です。六年生を担任していて、「みんな、四年生の時に『一つの花』って学習したでしょ?」って教室で聞いたら、「一輪の花です。絶対一輪の花!花は一輪、二輪と数えるんです。」「う~ん、『一つだけちょうだい』というゆみ子の台詞から、「ひとつ」だったと思いますよ。」「いや、絶対違う。」少しも引き下がりません。うれしくなっちゃいますね。例え間違っていたとしても、「花は一輪、二輪と数える」という根拠を示して抵抗してくれるのだから。
  でも、四年生の教科書を示し、あっけなくその主張を退けてしまったのですけど、「え~!?おかしいな。ぼくたちの時と、題名が変わったのかなぁ・・・・。」となかなか納得してくれません。それほど、彼にとっては、花を一輪、二輪と数えることは、大切な知識なのだと思います。多くの花が輪っか状になっていることから「輪」という数え方に納得して得た知識なのかも知れません。
 逆に言うと、「一つの花」の学習の時に「ひとつだけちょうだい」の記述を深く学習しなかったのかも知れないのです。一株からたくさん花をつけるコスモスを見たり、知ったりしていれば、その中から、ゆみこの「ひとつだけ」に対応して、お父さんが一輪だけもってきたことにも意味を見いだせたかも知れません。


新校長室だより
 わかば第四十四号
  平成二十九年四月二十五日(火)
 
 失敗 
 子どもは失敗をするものです。私なんか大人になっても失敗だらけ。失敗をして困っている子をさらに責めて困らせるなんてのは、ほぼ、いじめに近いものがある。だって、どんなに責めても叱っても、失敗したという事実は変えられない。今後同じ失敗をしないように一緒に考えて上げることの方が重要です。失敗を価値あるものにしなければもったいないのです。逃げ場がないような叱責は、逆に、叱られた方は、(この人、何が言いたいんだ?)と心の中で失笑してしまう事態になってしまったりします。 
 割れたガラスはもとには戻らない。しかも、弁償すればいいってことではない。一番問題だったのは、名前を聞かれても、名乗らなかったこと。それが一番の失敗。三月の末から、四月の中旬過ぎまで、ずっと、心に引っかかっていて、教頭先生に言うことができて『ホッとした』様子だとのことです。
 失敗をして、一番に考えるのは自分のことです。それは、大人でも同じこと。例えば体罰を起こした自覚があるとする。すると、懲戒免職が目の前にちらつく。傷つけてしまった相手のことよりも、自分自身の保身を計りにかけてしまう。そして、覚悟を決めて、「実は、やっちゃいました。」と白状することになるのかも知れません。
 「反省させると、犯罪者になります」という書籍があります。刑務所で、更正を担当している方が書いたものです。犯罪者も、同じように、やってしまったことよりも、自分の行く末のことを先に心配するのだそうです。そして、相手にどんな迷惑をかけたのかという反省文を書かせると、とても立派な文章を書く人ほど、再犯率は高くなるとのこと。嘘が上手になるのです。
 著者が言うには、犯罪を起こしてしまったときの本人の気持ちと向き合わせることで、再犯率は下がるのだそうです。
そういえば、尼崎線の事故のとき、ミスをした職員に「日勤教育」と称する、ペナルティーを課していたとか。内容は、漢字の書き取り、反省文を書かせる等だったと思います。そんなことをやっていたのだから、ミスが減るわけがありません。
 先生方にお願いです。罰として、勉強を課すようなペナルティーはやめましょうね。(していないと思いますけど)そんなことをしたら勉強嫌いを生みます。
新校長室だより
 わかば第四十三号
  平成二十九年四月二十四日(月)

  生きること 
 小学校高学年ぐらいになると、「生きる」ことについて考えるようになる子が出てきます。実際私もそうでした。生きるとはどういうことか。何のために生きているのか。普段、考えたこともないような自分の命。飼っていた猫の死に触れたり、祖父の死に触れる中で、こうして命あるものはいつかは死というものが訪れるのだ、と何となく理解する。そうして、最愛の母親が亡くなることを想像し、恐怖におののいたりしました。
 それでも、まだ、自分自身の命も同様に限りがあるものだとは分かっていても、実感することはありません。
 泣いたり、笑ったりしているうちに、なぜ涙が出てくるのだろう。なぜ、おなかが痛くなるほど笑いがこみ上げてくるのだろう。この感情を支配しているのは誰なんだろう。自分って何だろう。と自己を自覚し始めたころには、勉強や仕事が忙しくなってそれどころではなく、いわゆる「突っ走っている」状態で生きてきた。
 気づかない「夢中」状態で人生を歩んできているうちに、同僚や知人隣人の訃報に接する。自身でも肉親の死が順々に訪れ、喪主も経験したりする。その度に、聞かされる読経。何十回も聞かされているうちに、「梵語で書かれたお経を漢語に訳したもの」らしい、と分かってきました。成仏できるように読まれるお経は、死者のためのものなのでしょうか。それとも、お釈迦様に「よろしくお願いしますね」みたいなメッセージなのでしょうか。梵語も漢語も理解できる人は殆どいないことを考えると、やはり、後者なのではないかな、と考えたりする。しかし、まてよ、言葉の通じないお釈迦様の世界にいってやっていけるのだろうか、などと、長い読経のを聞きながら考えたりします。
 逡巡していると「合掌をお願いします」「おなおりください」の声。また、「親族の方からご焼香を・・・」。素直に従っているうちに、初七日法要の読経に入る。「四十九日は、来月かな、再来月かな。」と親族の経験していく法要の日程を想像します。そして、遺族は、この儀式を重ねながら、気持ちの整理をしていくのだという自分の経験を思い出します。
 十歳未満の脳死男児の臓器が移植医療に使われることになったそうです。心臓は十代の男性に、肺は五十代の二人の女性に、肝臓は十代未満の女児に膵臓はと腎臓は三十代女性、もう片方の腎臓は六十代男性に。
 遺族のコメントは以下の通り。「息子から生きる意味を学び、生きたいと思う意志を強く感じ、臓器提供を決断した。勉強も運動も一番を目指す自慢の息子で、どこかで誰かの未来のために役立ち、共に生きていけることを誇りに思う。」  親の気持ちは、張り裂けんばかりでしょう。もしかしたら、心の整理はこれからかも知れません。親よりも子が先という順番抜かしにならないよう、交通事故は防がなければなりません。

 


新校長室だより
 わかば第四十二号
  平成二十九年四月二十一日(金) 
 
 昨年度のサルベージです。(再掲:内容も昨年度のものです)
 水やり
 子どもの頃、花卉栽培農家でもあったので、植木の水やりの手伝いをさせられた。その際に母に言われたのは、「植木鉢の縁まで水がたまるように、たっぷりやること」だった。大きなすり鉢ぐらいある植木鉢に蓮口をつけたホースで水をやるのだが、二百以上ある鉢一つ一つにたっぷり水がたまるようにやるのは時間がかかり、疎ましく思ったものだった。私は学校が早帰りの時や夏休みなどにだけ手伝ったと記憶しているが、母は、私が手伝わない日ほぼ毎日、朝夕に行っていたのだった。
 先日(去年)、学校の花壇を賑やかにしようと、栽培ポットにサルビア、コスモス、マリーゴールドの種をまいた。「子ども110番の家」にプレゼントするミニひまわりも植木鉢にまいた(←諸所の事情で実現しませんでした)。朝、出勤すると、早くも誰かが水をやってくれている。水やりで思い出すのは、前任校での教頭先生である。学級だよりのチェックの際「『水あげ』じゃないでしょ~。『水やり』ですよ。」と、つぶやきながら添削をしてらっしゃった。なるほど、植物に水を「あげる」というのは植物に対して敬語を使うことになってしまう。『水くれ』や『水やり』が適当な表現であろう。
 そんなことも思い出していたが、ふと、植物の水やりと学習指導は似ているものだと気づいた。担任をしていたとき、栽培の単元では、水は植木鉢の下から水が流れ出るくらいやるように指導してきた。そうでないと、土の表面だけぬれていることを、あたかも『水やり』をしたと誤解しかねない。植物の根が水分を十分に吸収できるように、植木鉢の土の様子を想像しながら給水するのである。しかも根が水を吸ってしまうと、土が乾き枯れてしまうので、毎日繰り返し行わなくてはならない。
 学習指導も同様のことが言える。文章の理解でも、計算の方法でも、やって見せたり、説明をして児童が納得しても、表面上のことかもしれないと想像することが大切である。本当に理解したかどうかは適応問題で調べてみたり、登場人物の気持ちを書かせたりすることで確認できる。理解できていない場合は、表面が濡れているだけなのだ。それは水をやる側、すなわち指導する側の問題なのだと思わねばならない。
 しっかり根を張り、本葉が3~4枚になったら、花壇に移植する。しばらくは潅水が必要だが、しだいに人の手で水をやらなくても、根を深く張り、地中の水分のみですくすくと育ち始める。我々はこうした子に育てていかなければならない。アクティブラーニングの必要性、重要性がそこかしこで、強調されている。子どもたちの主体的学びのために、いきなり、学習をすべて子どもたち任せにしてしまうことは、芽も出ないうちに、あるいは芽が出てすぐに水やりをやめてしまうこと。あるいは、花壇に植え替えてしまうことと同じではないだろうか。分かる喜び、できたうれしさを一斉学習の中で何回も体験させながら、進んで学び追求する意欲と態度を育てていかなければならない。そうした後に、子どもたち自身の主体的学びにつなげていくのである。
 コスモスは蒔いた2日後にもう発芽が見られた。続いてヒマワリである。マリーゴールドは意外と数日たってからの発芽となった。やきもきしたのはサルビアである。素人が蒔いても発芽しないのかと思わせるほどだった。しかし、数日たって小さな双葉が見えたときの喜びはひとしおである。それぞれ特性が違う植物を同時に播種したことで特性の違いを学ぶことができた。教室の中の子どもたちも一人一人違う特性を持っている。同じようには育たないし理解もそろいはしない。そうしたことをすべて引き受けて学習指導、生徒指導に当たるのである。「育てる」視点を忘れてはならない。と、思う。
新校長室だより
 わかば第四十一号
  平成二十九年四月二十日(木)

 

  あと5㎝ 
 気持ち良い朝の空気の中で、高学年が真っ先に校庭でランニングしています。放っておいても、自分からがんばろうという「自発性」なるものは、芽生えてこない。きっと、先生方が、工夫して働きかけてくださっているからこそ「がんばろう!」と意欲をもって体力作りに励むのだと思います。有り難いことです。
 二百メートルトラックを一周すると、駆け足で何歩ぐらいなんでしょう。全速力と、ジョギングではだいぶ違うと思いますが、軽いジョグなら、子どもの一歩が一メートルぐらいかも知れません。すると、二百歩。その一メートルをわずかに伸ばして、一歩を一メートルと五㎝にする。そうすると、一歩一歩に負荷をかけられますし、一周では5㎝×二百で千㎝、つまり、同じ歩数で十メートル多く距離を稼ぐことにつながります。二百メートルを走ることも大切ですが、その一歩一歩をより大切に「あと5㎝」付け足すことで、総量として大きな運動に変えることができるのです。
 「千里の道も一歩から」私の好きな言葉です。また、この「一歩」は、ゼロから脱出する大切な一歩なのです。一歩を歩み出すことでゼロではなくなる。膨大な仕事を前に、手をつけるのをためらっていれば、結局、ゼロに時間をかけていただけとなります。しかし、一行でも、二行でも、あるいは一文字でも、手がければ、ゼロではなくなる。ゼロから脱出する偉大な一歩なのです。
 気の遠くなるような仕事も、その一文字や一行の積み重ねに過ぎません。その一文字や一行に「丁寧な文字で」とか、「止めはねはらいに気をつけて」とか、「一文字ではなく二文字」「一行ではなく一行半」など、負荷をかけていくことで、意欲や仕上がりも変わってきます。

 昨日校長室見学に訪れた一年生。五十の塔の模型を見て「わー、すごい、これ、誰が作ったんですか?」「これは、(掲額された写真をさして)この須田校長先生のお父さんが作ったんですよ。」「一人で?」「きっとそうです。」
 など、わいわい楽しそうに見学していたら、ある男の子が別のグループの男の子に「ダメだよ、としょしつっていってたじゃん。」「うそつき。」と厳しく、しかもややしつこく言い始めました。おいおい、校長室でケンカするなよ~、と思ったら、「ケンカしないで。」と間に入った男の子がいました。とっても優しい口調です。まるで、年上の女の子が言っているような様子。R君です。
 それでも、まだ、強く非難している様子に私も、「ねぇ、今みたいにお友達にきつく言って、いい気持ちになるの?」「言われた人が嫌な気持ちになるんじゃない?」と優しく言ったつもりだったんですが、涙目に・・。やべ。

 


新校長室だより
 わかば第四十号
  平成二十九年四月十九日(水)
 
 カラスとスズメ
 カラスノエンドウは「カラス野豌豆」という話は以前したと思います。そのカラスノエンドウだらけだなぁと、校地内を見ていたら、スズメノエンドウ(スズメ野豌豆)を見つけました。みなさんご存じカイノキの植え込み真下です。そこでは、白い小さな花をつけたスズメノエンドウとカラスノエンドウをダブルで見つけることができます。カラスとスズメの同居状態です。
 ただ、カとスの間のカスマグサはなかなか見つけられません。どなたか見つけた方は教えてください。できれば身近にあればいいなぁと思っています。 
  雑草と言ってしまえばそれまでです。しかし、その一つ一つにも命が宿っていて、ものを言わないけれども、子孫を残し、繁栄し、他と競い合っているようにも見えます。さらに、季節季節で違う顔を見せ、「生活している」ことさえ感じられるのです。
 そんなことを書きながら、西側フェンス下にはヤブガラシが生えてきていて、「あぁ、これがはびこるとしつこいんだよなぁ・・・あ、ヘクソカズラも出てきた。何とかして駆除しないと・・・」と自分に都合よく考えている。まるで、北○鮮に対する世論のように。かの国にも政治とは無縁な国民がいて、命があってその炎を絶やすものかと必死になってがんばっている。
  報道は、そんな下々のことは触れずに独裁者について報じている。以前は盛んに一般庶民の悲惨な暮らしぶりを取材したビデオが流れたこともありますが、今は警戒が強くなっているのでしょうか。あまり流れてこないような気がします。実際どうなんでしょう。拉致被害もいまだ解決には至っていません。
 ところで、カラスとスズメが近くにいて、近似種なのだから、交配してもおかしくないのではと、私のような素人は考えてしまいます。そうならないからメンデルが遺伝の法則を見つけたのかな。あ、あれはエンドウ豆か・・・?
 「いつたずねていっても留守の鳥がいるんだよ。なんの鳥か分かる?」「いつ行っても巣が空なんだよ。だから、カラス」なんて小話があったなぁ。あ、あれは、鳥の方のカラスね。カラスはいるだけでも嫌なんですけど、スズメはかわいい。だから、少しぐらいカラスのように人間の近くに寄ってくればいいのにと、思ってしまいますが、スズメの方が警戒心が強いようです。それは、稲作に対する害鳥だったので、人間に追い立てられてきた歴史があるかららしいです。

 

 今日は、杉戸町教育研究会の主任会です。私は別の方の出張に行かなければならないので、申し訳ありません。体育と、給食部会はすみません。よろしくお願いいたします。

 


新校長室だより
 わかば第三十九号
  平成二十九年四月十八日(火)

  ハナミズキ 
  花吹雪を思わせながら、桜が散り、八重桜が濃いピンク色の花を咲かせています。自転車小屋うらのハナミズキが赤い色をつけはじめました。昨年も触れましたが、花びら(花弁)に見える部分は、花の蕾を包んでいた総苞と呼ばれる部分。花は中心部にちょこっとあるものなのだそうです。オシロイバナやドクダミも白い花を咲かせるイメージですが、あれも花弁ではなく、苞(ほう)です。しかも、花びらが存在しないとのこと。
 花がなくても、花のように昆虫などのを誘うためでしょうか。蕾を包んでいて、用無しになった苞を花のように擬態するのかも知れません。進化の過程で、子孫を残していく工夫?工夫と言うより、そういう種が、淘汰されずに残ってきたといった方が合っているでしょう。
 では、なぜ、花弁を作らなかったのか疑問が残ります。もしかしたら、花弁を作るのは、植物にとってかなりのエネルギーがいるのかも。もともと、蕾を守っていた苞をリユースすることで、エネルギー消費を抑えることに成功した、なんて、仮説も考えられます。
 私たちの仕事も、子どもたちを指導する資源は、担任だけではなく、地域の方であったり、保護者であったりします。それを活用すれば資源ですが、活用しなければ、ないのと一緒です。松戸の事件のように、保護者会の会長が容疑者とされていることは、「保護者」側から積極的に学校とかかわろうとする姿勢を崩すものでもあります。そうならないように、われわれの方から、今まで以上に働きかけて繋がりを強固にしていくことが大切ではないでしょうか。
  さて、ハナミズキと言えば、今はアメリカハナミズキ。アメリカと付くからにはアメリカ生まれ。実は1912年に、日本からアメリカにソメイヨシノを送った返礼として日本にやって来たということです。それから百年ちょっと。全国にアメリカハナミズキが広がりました。
 ゲンキヤルキミズキも、6年生の学級経営をしっかりとやってくれています。ありがとうございます。成長したね!

 ※学校説明会では、四月三日に先生方にお示ししたプレゼンをそのまま流し説明しています。「望まれる教師像」もそのまま示しています。もし、懇談会で、そのことへの疑問や、意見が出てきたら、気兼ねなく教えてください。


新校長室だより
 わかば第三十八号
  平成二十九年四月十七日(月)

 アイスブレーキング
 今日は、二・三年生の学級PTA、懇談会です。懇談会では、担任からの一方的な話にならないようにお願いします。保護者の皆さんも、緊張感をもって、懇談会に参加していますから、和やかにするためにも「アイス・ブレーキング」の活用をおすすめします。
 昨年度、地区懇談会に参加された方は「実は、自己紹介」の有効性はおわかりのことと思います。また、他にも、「お題提示、自己紹介」というのもあります。「得意なこと」とか「小学校時代の思いで」など、お題を1つ決めて、それを加えて自己紹介していただく。笑いや笑顔が出れば、なんとか合格です。笑い声が出れば、百点満点なのではないかと思います。
 コミュニケーションの基本は、話し合った内容はもちろん大切ですが、それよりも、いかに参加者それぞれ存在感がそのコミュニティにあったか、そして、それを自覚してもらえたかということだと思うのです。
 同じように、今日の、参観授業も、指導内容ももちろん大切ですが、さらに、「このように、児童を活躍させています」とか、「主体的対話的で深い学びの授業はこういうものですよ」といったプレゼンテーションです。この四五分が一年間の保護者からの信頼のもとになります。がんばりましょう。


新校長室だより
 わかば第三十七号
  平成二十九年四月十四日(金)
 
 県学力学習状況調査
 昨日は、昨年度の学習指導の成果が測られる日でした。児童の学習状況をもとに、われわれの指導がどうだったか見られるのです。結果が出るのは七月以降かも知れませんが、それまで待っているわけにはいきません。せめて、一学期の通知表の評価に「C」をつけないような指導が必要ですし、「B」段階に見える子を「A」に引き上げるような日々の工夫が大事なのです。学力は、簡単には上がりません。先生方の毎日毎日の、毎時間毎時間の日々の気が遠くなるような、血のにじむような工夫と努力が積み重ねられたものが、学力向上につながるのです。
 同じ楽譜で演奏しても、聴衆に涙を流させる演奏家もいれば、あくびを誘ってしまう演奏家もいます。また、落語でも、同じ話なのに、名人が演じるとおかしくてたまらないのに、前座がやるといらいらしてくることも。
 音楽では、楽曲を作った作曲者への深い心情的理解が楽譜に現れない曲想を微妙に醸し出すのかも知れません。落語では、聴衆の反応を肌で感じながら、間や調子を一つずつ学んでいくのだと思います。いずれにしろ、極めようとする強い意志と、揺るぎない日々の努力が大切であると確信します。つまり、学ぶ意志です。
 われわれの仕事も同じです。同じ指導案を使っても、同じ指導はできません。まして、一言一句台詞を整えて、隣同士のクラスで指導しても、差が出るのが当然です。森信三さんも言っています。

教育とは流水に文字を書くような
はかない業である。
だがそれを巌壁(がんぺき)に
刻むような真剣さで
取り組まねばならぬ。


 自分の過去を振り返ると身震いするような厳しいことばです。それほど、学習指導というのは難しいものなのだと思います。はかないのです。私たちだってそうでしょ?覚えたことは忘れるようにできているのです。そうしないと、新しいことが入ってこない。短期記憶を長期記憶に留めていくためにも、活用を通した習熟が必要なのだと思います。
 県学調は、児童一人一人の良さを伸ばすためというねらいがあります。結果をもとに、効果があった取組を県全体で実行しようというねらいもあります。その「効果ある取組」は決して過去問を繰り返しやるということではありません。授業を改善する視点で見ていかないと、とんでもないことになります。
 昔、相対評価だった頃は、戒めとしての「C」もあったかも知れません。しかし、絶対評価となった今は、「C」をつけることは、われわれの指導の敗北とも言えるのです。
 学期末には「やった!この子を伸ばすことができたぞ!」とうれしい思いをしたいものです。 


新校長室だより
 わかば第三十六号
  平成二十九年四月十三日(木)

 厳しい指導
 一昨日の一斉下校は雨の中、本当にありがとうございました。安全主任のS先生、全校の指導の企画立案ありがとうございました。校長の話を頼まれて、私は、雨の中西幼稚園の入園式に、遊歩道を歩いて行ってきたときのことを話そうかなと思っていたのです。(だから、傘を持っていた)しかし、H先生の厳しい指導で、ようやく我に返ることができました。なんのための一斉下校の話なのか。それで、傘を後に隠して、私も、厳しい話をさせていただきました。
 のんびり話そうと思っていたことは、遊歩道が桜の花びらで絨毯のようになっていたこと。雨を予想して、80センチメートルの大きな傘を買ってさしていったら、桜の花びらがたくさん付いて、水玉模様のようになったこと。雨だから嫌だなぁというより、発見もあるよというような話はちょっぴりできたかな。きつつきの商売は私の大好きな話の一つです。
 でも、安全第一です。
お願い
【その①教科書】
 国語や算数などの厚みのある教科書の使い方。最初が肝心です。表紙と裏表紙の折り目のところできちんと折り目をつける。それから、表紙と裏表紙を開いたまま、真ん中あたりのページを開く。そして、開いたページを、深く開き、表紙と裏表紙の折り目あたりでどのページも折れるように、まとめて、折り目をごしごしこする。すると、使いやすい教科書になります。※裏表紙近くに、切り抜き資料が載っているものもありますが、注意しないと、勝手に切り取ってしまう子もいます。
【その②メートル法】
 よく、「3センチ」とか「1キロ」とか言いがちですが、センチもキロも補助単位です。「μシーベルト」の「マイクロ」と同じです。面倒でも、日常的に「センチメートル」「キログラム」と基本単位まで言う習慣化を願いします。
【その③全員】
 お客さんを作らない工夫をしていきましょう。これは、研修推進で進むと思いますが、研修推進でなくても、「ただ聞いているだけの子」「聞いているふりをしている子」をくせにしないようにしましょう。意図的に指名したり、役割を与えたり工夫をお願いします。
【その④廊下歩行】
 ⇒右の「ろうかほこう」と打って変換したら、なんと「老化歩行」となってしまいました。なんじゃい!ではなく、校内で安全に歩けない子は、校外でできるわけがない。廊下を走らない、階段を飛び降りない。年度当初お話しがあったように、Uさんや、S君がいるのです。そうでなくても大けがにつながります。安全を守ることは思いやりでもあります。重ねて指導をお願いします。

 


新校長室だより
 わかば第三十五号
  平成二十九年四月十二日(水)

  花筏(はないかだ)
 桜の花びらが散り、古利根川や、遊歩道脇の排水路を浮かんで流れていきます。その様子を「花筏」と呼ぶと知ったのは十年ほど前。素敵な言葉だなぁと感動をもって記憶の中に入っていきました。水面を埋め尽くさんばかりの桜の花びら、それがゆったりと流れていく。日本人の心に美しさとなって映ります。
 「花は桜木、人は武士」とは、新渡戸稲造の「武士道」。日本人の道徳性を一言で表したよりどころとのこと。神仏混淆や、聖武天皇の大仏建立など、日本人にとって、道徳性の根本となる宗教観は非常に脆弱です(だって、神道のトップである天皇が異教徒のシンボルの大仏を作らせるのですから)。諸外国では、キリスト教やイスラム教、さらに仏教や儒教も道徳性の柱となっているようです。行動規範のもととも言えます。
 ヨーロッパ圏の人々にとって、花の美しさは「バラ」に象徴されるような華やかなもの。それが、枝に付いたまま朽ち果てていく。日本人は桜の散り際も美しいと感じ、散ったあとの、花びらの絨毯や、花筏も美しさ、愛おしさとして心のひだに触れます。また、葉桜になったときのみずみずしさも季節感とともに受け入れています。
 本居宣長は、外国から入ってきた理論的な考え方である「唐心(からごころ)」に対して、日本人本来の「大和心(やまとごころ)」を以下のように表しました。
「敷島の大和心を人問わば、朝日に匂う山桜」 敷島とは大和にかかる枕詞です。山桜は、香りが殆どしないかすかなものなのだそうです。つまり、日本人の心って「理屈じゃねぇよ」って本居さんはいいたかったのかも知れません。以心伝心、気は心、なんてのも、大和心なればこその表現かも知れません。
 さて、士農工商の江戸時代のホンの一握りの武士の生きざまが、農工商を含めた日本人全体の道徳心のよりどころだというのは無理があるのでは、と考えるのも自然です。しかし、武士はその生きざまで尊敬されていたことも事実です。幕末の新撰組の面々も、武士に憧れて、武士の資格をとったのです。
 殺し屋集団であった「武士」を、戦のない世の中で「官僚化」したのが徳川幕府です。一番偉い身分におかれたというのもありますが、武士道の清廉潔白であることが尊ばれたのだと思います。
 だからこそ、大岡越前や、長谷川平蔵、遠山の金さんなど、大衆に歓迎されたと言えるでしょう。現代でも、私たち公務員に求められているのもそうした、清廉潔白さです。新しい教科道徳(仮称)もそのことを無視はできないのでは?と思うのは、私だけ?

 


新校長室だより
 わかば第三十四号
  平成二十九年四月十一日(火)

  昨日の始業式・入学式ありがとうございました。反省会で、先生方の改善へのご意見をたくさん聞くことができ、とても有り難いと思いました。来年度も、よりよい式になるように工夫改善していきましょう。
  危機管理
 那須の冬登山安全訓練での雪崩事故の教訓。「経験則に絶対はない」。
 経験上、事故を起こしたことがないからと言って、これからも、事故がないわけではない。前の西小学校の校長先生は「われわれの仕事は、全てが危機管理につながっている」と教えてくださいました。今日一日、事故なく子どもたちが安全に過ごすことができたのは、絶え間ない、先生方の危機管理の延長線上にあるのです。
 口を酸っぱくして、子どもたちの耳にタコができるほど、事故防止を叫んだとしても、三十人が三十人とも受け入れたり、分かったりすることは不可能に近い。それは、学習指導で、三十人相手に新しい知識を授けたからと言って、テストをしてみれば、正答率が百%になることは殆どないことと一緒です。
 しかし、事故防止指導・安全指導を全くしていなかったとしたら、事故率はグンと上がるのです。百%に指導を行き渡らせることは難しくても、九割や八割の子が分かってくれて、そのうち半分ぐらいの子が具体的な行動をとってくれているからこそ、事故がなく過ぎているのかも知れないのです。
 また、昨年度、うまくいった指導だからと言って、今年の子どもたちに同じようにうまくいくわけではありません。新しく担当した子どもたちの実態に応じて、効果的な指導を、創造しなければなりません。何しろ、昨日の入学式だって、大地震が起きていてもおかしくなかったのです。そのときに、パニックになった新入生や動揺している保護者をどう誘導して守るか、具体的なイメージが必要です。
 入学式だけではありません。普段の授業中、休み時間、下校時・・・。東日本大震災の時は、(K市では)低学年は下校済みでした。しかし、鍵っ子の子は、パニックだったようです。保護者はなかなか家に帰ってこられないし、不安でたまらなかったのではないかと思います。
 そうそう、今年の一年生は、東日本大震災が起こった年度に生まれた子達です。平成二十三年三月十一日。ちなみに一組のK君は三月十七日生まれだそうです。お母様の気持ちはどうだったのでしょう。さぞ不安の中での出産だったのではないかと思います。

 


 新校長室だより
 わかば第三十三号
  平成二十九年四月十日(月)

   桜満開
 四月三日から四月七日までの五日間、今日と、これからの学級経営のご準備にご尽力いただき本当にありがとうございました。何か、よく「チーム○○」という言い方をしますが、そんなスローガンを掲げなくても、まさに、先生方が団結して協力し合ってお仕事をされている様子に本当に頭が下がりました。
 「校長は何をしていたんだ」とお叱りを受けそうですが、お叱りを受けても、ごめんなさいとしか言いようがないほど忙しく、あっという間の五日間でした。仕上げなければならない入学式の式辞も金曜日にようやく推敲している始末です。やはり、教諭の頃からの癖で、「土日があるから・・・」という甘えがあるような気がしています。(ガンバレ!)
 教頭先生は、この時期、提出物の嵐で、本当にありがとうございます。五月の中旬までは、「教頭殺し月間」と名付けてもいいような書類の山なのです。それでいて、新学期が始まると、保護者からの問い合わせや、クラスの児童のトラブルなど、対応に追われることも多々あります。にもかかわらず、笑顔と冗談を絶やさない教頭先生は、本当に頼もしく思います。ありがとうございます。
 そんな忙しい五日間、木曜日にお話ししたように、この時期の先生方の気持ちを大切にしてください。新しい学年、クラスへの希望や豊富に溢れた時期です。目の前に、現実的に児童がいないからこそ、本当に自分らしく、新鮮に大局的に考えられる時期でもあるのです。言わば、教頭や校長と同じような大局的な視点で学校や子どもたちの一年間の展望を考えられるときでもあるのです。だからこそ、文章で残しておいていただくと後々生かすことができると思います。
 三日月曜日には五分咲きほどだった桜が、七日金曜日には八分、九分咲きとなりました。五日間で、先生方同士の協力体制もがっちり固まってきたように思っています。本日十日月曜日には、満開か、桜吹雪の中で、先生方の心を込めた始業式入学式を迎えられることを確信しています。それもこれも、保護者や子どもたちの見えないところでも先生方が一生懸命築きあげてきた賜なのです。満開の桜を見ながら万感胸に迫る思いです。



平成28年度 校長の教室訪問↓

おおぞら学級のろうか掲示です

授業風景

名前は消してあります。

 

 

 

 

 


平成29年3月8日(水)

3年生が、歴史と民族の博物館の学芸員から昔の道具講座を受けています。体験型で印象に残ります。

授業風景

授業風景

 

 

 

 

 

 

授業風景

授業風景

 

 

 

 

 

 

4年生の算数です。立体の学習で、教師も児童も模型を操作することによって、

具体的な理解が深まる工夫がされています。

授業風景

授業風景

授業風景

 

 






3月3日

4年生が理科室で、もののとけ方の実験観察を行っています。

ものがとけた後、濾紙でこしたら、とけていたもの出てくるのでしょうか。

授業風景授業風景

授業風景

 

 

 

 

 


平成29年2月24日(金) 

1年生が図工で型押し遊びをやっていました。汚さないようにルールを守って、楽しんでいます。

いろんな型を持ち寄りましたが、オクラもありました♪

授業風景

授業風景

 

 

 

 

 

 

授業風景

授業風景

 

 

 

 

 

 

授業風景

 

 

 

 

 

 

6年生が跳び箱運動練習しています。友達同士で、ポイントを話し合い、アドバイスをしています。

授業風景

授業風景

 

 

 

 

 

 

5年生の陸上運動です。ハードルは遠い踏切、近い着地が基本。意識している子もいます。

走り幅跳びは、着地の姿勢に気をつけているようです。

授業風景

授業風景

 

 

 

 

 

 

授業風景

 

 

 

 

 

 


平成29年2月23日(木)

3年生で特別活動(学級話し合い活動)の研究授業でした。司会からもみんなからも

黒板が見える座席配置など工夫された中で、全員が意見を発表できていました。

授業風景授業風景

 

 

 

 

 

授業風景


 

 

 

 

 

5年生が学年で、6年生を送る会の練習をしています。最高学年になるという

意識を学年で育ててくれています。

授業風景授業風景






授業風景







平成29年2月22日(水)

2年生が学年で、6年生を送る会の練習をしていました。運動会の応援の再現です。

とにかく、元気な声で6年生への「感謝」をあらわそうとしています。

授業風景授業風景

 

 

 

 

 

5年生の算数の学習、板書がカチッとしていて、わかりやすいと感じました。

児童のノートもきれいで丁寧です。

授業風景授業風景

 

 

 

 

 

こちらは、自習中の5年生。黙々と課題をこなしています。

授業風景授業風景

 

 

 

 

 

4年生の算数です。分数の学習で、「単位分数のいくつ分」という考え方を

きちんと押さえてくれています。

授業風景授業風景







平成29年2月20日(月)

おおぞら学級で英語での活動をしていました。「この動物の鳴き声は?」日本語と英語でやや違うものが

ありますが、英語の泣き方も、元気にまねできました。

授業風景授業風景授業風景

 

 

 

 

 

3年生の算数です。二等辺三角形と正三角形の角の性質を調べるために、作図して、切り取っています。

授業風景授業風景授業風景

 

 

 

 

 

となりの教室では「6年生を送る会」のメッセージを書いていました。丁寧に色をつけたり、丁寧な文字で

書いたり、心が込められていることが感じられます。

授業風景授業風景

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


6年生の理科「人とかんきょう」の学習です。ウェビングで考えを広げ、集約したものをまとめ

自分の考えを交流し合っていました。

授業風景授業風景

 






授業風景





 

5年生の算数。分数のかけ算です。なぜ、かけられる数の分子に整数をかけるのか、

図や、式で自分の考えを説明しています。その中で、単位分数の考え方ができているので

感心します。

授業風景





 

 

 

 

 

 

授業風景

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

4年生の跳び箱運動です。練習のときのルールをきちんと徹底して安全に指導しています。

授業風景授業風景

 

 

 

 

 

同じく、4年生の図工の作品が教室にあったので、パチリ。

授業風景

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

授業風景

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2年生が、6年生へのメッセージを仕上げていました。やはり、丁寧に心を込めています。

 

授業風景

授業風景







平成29年2月16日(木)

縄跳び記録会最終日、今日は学校評議員・学校評価委員会のみなさんの参観がありました。

一生懸命子どもたちが学習に取り組む様子と、新しい学習指導の様子を見ていただきました。

授業風景

授業風景

授業風景

 

 

 

 

 

 

授業風景

授業風景

授業風景

 

 

 

 

 

 

授業風景

授業風景

授業風景






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平成29年2月14日(火)

おおぞら学級の子どもたちが、発表の練習をしていました。PPAPのリズムです。

ノリノリで寿司屋さんをやっています。本番が楽しみです。

授業風景授業風景

 

 

 

 

 

授業風景授業風景

 

 

 

 

 

2年生は、6年生にプレゼントする写真の額縁を作っているところです。できあがったものを参考にして

もっと良いものに仕上げようとしています。

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3年生は毛筆で書写の学習中。始筆、終筆、とめ、はね、払い。筆使いに気をつけて書いています。

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1年生の算数。時計の読み方を、友達同士クイズ形式で学んでいます。生活で必要だから、時計は

低学年から学びます。

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5年生が国語で、説得力のある文章を書こうと努力していました。行事に結びつけて、必要感をもたせた

めあてが設定されていました。

授業風景授業風景

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

授業風景

 

 

 

 

 

 

6年生の理科。発電機を使って、いろいろなものを作動させていました。自分の手で携帯発電機を回し

発電しています。発電しているときの手応えは、ハイブリッド車ではブレーキとして働きます。

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平成29年2月10日(金)

3年生の算数。二等辺三角形をコンパスを用いて描いています。大型ディスプレイには、動画。

さらに、丁寧に描けたノートを写しだしています。コンパスの使い方の理解が深まります。

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4年生の国語。熟語について、隣同士で話し合っています。

授業風景授業風景







6年生の書写。落ち着いて作品を仕上げています。

授業風景授業風景








平成29年2月9日(木)

3年生の音楽。音楽室で、24日の音楽朝会で発表する歌の練習をしていました。

授業風景授業風景


 

 

 

 

 

1年生のこのクラスは昔遊びボランティアさんにいただいた「ビュンビュンごま」

を回していました。「校長先生見て~!」上手に回せるようになっています。

授業風景授業風景

 

 

 

 

 

 

5年生の総合的な学習の時間。パワーポイントを使って発表スライドを作っていました。

強調の仕方を工夫してくれ、感心しました。

授業風景授業風景授業風景

 

 

 

 

 

 

4年生の理科。サーモリキッドを使って、水の温まり方を観察中です。

授業風景授業風景








平成29年2月8日(水)

1年生の国語の学習。自分たちで考えたクイズをだして、ヒントと質問から、何か当てます。「食べられますか?」

「どんな形ですか?」「色は?」・・・「はい!はい!」大盛り上がりです。

授業風景

授業風景授業風景

 

 

 

 

 

 

3年生、新出漢字の学習中でした。ドリルできちんと確認した後、大きく指書きをしています。みんなが

手を大きくふりながら空に書いています。

授業風景授業風景

 

 

 

 

 

4年生の社会科。川越の芋の生産と、販売についてインターネットなど、現代ならではの情報通信も

交えて、学習しています。アマゾンを利用している家庭も増えているようです。

授業風景授業風景

 

 

 

 

 

こちらも4年生の国語の学習。自分が書いた説明文の要約文を、お互いに発表し合い、良いところを

指摘し合っているようです。全員参加型の学習です。

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平成29年2月7日(火)

 

2年生が生活の振り返りをしていました。自分に厳しい子もいたようですが、

みんな、がんばっているよ!字もきれい!!

授業風景

 

 

 

 

 

授業風景授業風景

 

 

 

 

 

 

6年生の道徳です。創造的な仕事について、将来の自分と重ねて学んでいました。

自分の考えを立って、友達と交換しています。

授業風景授業風景

 

 

 

 

 

授業風景


 

 

 

 

 

4年生の図工です。「校長先生、見て!」とても、楽しそう!写真ではよく見えませんが、

発泡スチロールにまみれても楽しんでいる子も。

授業風景授業風景








平成29年2月6日(月)

今日は低学年を中心に見ることができました。1年生は算数で、さいころを使って「すごろく」

をやっていました。数に親しむ活動です。友達と仲良くさいころを振っています。

授業風景授業風景

 

 

 

 

 

授業風景


 

 

 

 

 

2年生の国語の学習。ノートの文字がきれいでとっても感心しました。

授業風景授業風景

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

こちらは1年生の国語。やはりノートがきれい。しかも、音読の姿勢が立派!

授業風景授業風景






授業風景








平成29年2月3日(木)

 5年生の国語。複合語の学習でした。私も思いついたので、参加してみました。

授業風景授業風景

 

 

 

 

 

授業風景

 

 

 

 

 

 

こちらも、5年生。図工に熱心に取り組んでいます。ビー玉が転がる道の工夫です。

難しい形に挑戦している姿が真剣でした。

授業風景授業風景

 

 

 

 

 

授業風景

 

 

 

 

 

 

4年生が理科室で、もののあたたまり方の実験用意です。金属の棒に

ロウを塗っています。やることが分かって安心して取り組んでいます。

授業風景

授業風景

 

 

 

 

 

 

こちらは6年生。算数の授業なのに、なぜか、中学校の時の得意教科をインタビューされました。

T2の教員にもインタビューしてました。穏やかな表情の6年生。ホッとします。

授業風景授業風景

 

 

 

 

 

授業風景

 

 

 

 

 

 

2年生が図工室で版画を刷っていました。うれしそうに作品を見せてくれます。

スタンプ版画の楽しさを味わっています。

授業風景授業風景






授業風景







平成29年2月1日(水)

2年生が廊下や、教室で長いものの長さを調べていました。ダイナミックでいいですねぇ!








平成29年1月31日(火)

6年生の社会科見学に行ってきました。始めは「JICA地球広場」で国際理解の学習。

積極的に学習に取り組みました。総合でも調べていて、役に立っています。

社会科見学社会科見学


 

 

 

 

 社会科見学

 

 

 

 

 

続いて、国会議事堂見学。衆議院の傍聴席に着いて、学習しました。1㎡2万2千円の

赤絨毯も歩いてきました。

社会科見学社会科見学


 

 

 

 

 社会科見学

 

 

 

 

 

続いて、江戸東京博物館。海外からの留学生の方と国際交流もできました。

ちょっと、時間が少ないようにも思いました。中身の濃い博物館です。

社会科見学社会科見学






 社会科見学

 

 

 

 

 


平成29年1月30日(月)

2年生の教室にお邪魔しました。国語の学習をしているクラスが2つ。

一方は、グループでの話し合いを発表していました。他方は、一斉型で

発表し合っていました。どちらも「聞く」態度をきちんと指導していました。

もう一つのクラスは鍵盤ハーモニカで運指を学習中でした。

授業風景

授業風景

 

 

 

 

 

 

授業風景授業風景

 

 

 

 

 

授業風景授業風景

 

 

 

 

 

 

6年生は、体育で跳び箱の学習。ウォーミングアップの場面を見せてもらいました。

場を工夫し、着手をきちんと指導してくれています。

授業風景授業風景授業風景







平成29年1月27日(金)

 日差しがなく寒い朝でしたが、子どもたちは縄跳びに熱心に取り組んでいました

長縄跳び、短縄跳び、それぞれ、縄跳び記録会に向けて意欲的に練習しています。

授業風景授業風景

 

 

 

 

 

授業風景授業風景

 

 

 

 

 

 

 おおぞら学級で、なかよし記念集会の練習です。私も呼んでもらい、様子を見せて

もらいました。とってもはっきりと、大きな声で、自信をもって発表していました。

 

授業風景授業風景

 

 

 

 

 

 

 3年生の体育で、平均台の上でバランスを取りながらの、ボールパス&キャッチ

楽しそうに頑張っています。

授業風景授業風景

 

 

 

 

 

 

1年生の担任が出張のため、教頭先生が体育をみてくれました。どんどん、上手に

なっていきます。がんばれ!

授業風景授業風景






授業風景







校庭で平成29年1月26日(木)

 3年生の理科の授業研究でした。担任の問いかけにきちんと答え、

課題を解決しようと、磁石とクリップを操作しています。子どもの理科

離れと言われていますが、子どもたちは実験大好きです。

授業風景授業風景

 

 

 

 

 

授業風景

 

 

 

 

 

今日は、1教室だけの訪問でした。ごめんなさい。


平成29年1月25日(水)

5年生の書写「プリント」でなぞった後、墨をつけて練習していました。姿勢がとてもいい。

筆も寝ていません。

授業風景授業風景

 

 

 

 

 

 

4年生の国語。説明文の学習でした。私に、1人1人の音読を聞かせてくれました。

声の大きさ、速さに気をつけて、相互評価をノートにしています。言葉の意味を

考えて抑揚のある読み方に感心しました。

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こちらも4年生。算数の問題練習です。静かに丁寧に、一生懸命やっています。

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平成29年1月24日(火)

 1年生の「手紙でしらせよう」の学習。「先生って漢字で書きたい人は漢字でいいですよ。」

使わなければ、使えるようにならない。いいことだと思います。姿勢もとても立派。

文字もとてもきれいです。

授業風景

授業風景

 

 

 



授業風景















こちらも1年生。算数で、数字の並び方の規則性をグループで考えています。

身を乗り出して、話し合う様子にうれしくなります。

授業風景授業風景







授業風景








おおぞら学級の授業です。とても落ち着いて、集中しています。

文字情報と、視覚情報を使い、一生懸命考えて発表しています。

授業風景授業風景








2年生の国語の学習。説明文の「問いかけ」の文章について考えていました。

「話題の提示」という役割を児童の言葉から引き出していました。

授業風景授業風景









平成29年1月23日(月)

 1時間目の体育館、おおぞら学級が体育をがんばっていました。

授業風景授業風景







5年生も、縄跳び、時間跳びにチャレンジ

授業風景授業風景







6年生と、2年生が合同で縄跳び。リズム縄跳びを教えてくれています。

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 2年生の授業、算数と国語でした。算数のクラスは、大型ディスプレイを活用し、

さらに、前時までの学習の掲示をしてあり、学び直し易くしてあります。

 国語のクラスは新出漢字の指書きです。担任と一緒に、大きく腕を動かして

指で筆順通りに書いてから、ドリルに記入しています。

授業風景授業風景







授業風景授業風景







6年生の算数は、グループで気がついたことを話し合い、全体で発表です。

資料を見て、考えられることを発表し合っていました。

授業風景授業風景








4年生は社会科で、昔の暮らしについて話し合っていました。

杉戸宿、開宿400年のロゴマークについて、話し合ってます。

授業風景授業風景








こちらのクラスは、算数の問題練習ですが、学習課題がしっかり提示されてます。

授業風景授業風景







1年生のこのクラスは、生活科で「かごめ、かごめ」をやっていました。

授業風景授業風景









平成29年1月20日(金)

 寒い日でしたが、朝から、1年生は元気にたこ揚げでした。風がないので、

走ってあげていました。よい運動になりますねぇ。

授業風景













授業風景













授業風景













 2年生の算数。大型ディスプレイにタブレットから情報を写し、個別に指導中です。

 隣のクラスは、黒板に表示して、同じように個別に指導してくれています。

授業風景授業風景







授業風景授業風景

 







4年生も算数をやっていました。教科書の確認問題が終わり、ドリルにうつります。

授業風景授業風景







 5年生の国語。グループで話し合ったあと、すぐに一斉型に並べ直し一斉学習

 さすが5年生動きが迅速です。

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 3年生は社会科が始まるところ。教科書と副読本など資料の確認を行っています。

 確認をしないと、資料がないまま放っておかれてしまいます。堅実なやり方です。

授業風景授業風景







 6年生の国語。詩の学習でした。卒業が間近に迫った気持ちと重ね合わせて、

感想を発表しています。

授業風景授業風景







 1年生の図工。作品の鑑賞の学習です。1人1人発表し、聞く態度も立派です。

授業風景授業風景








平成29年1月19日(木)

 3年生がスタンプ版画を刷っていました。同じ形を色を変え工夫しています。

授業風景授業風景







授業風景授業風景








 1年生はたこ(凧)を作っていました。思い思いの模様を工夫しています。

授業風景授業風景







 6年生の家庭科です。グループで考えた地域の様子について、

付箋紙を中央の黒板に持ち寄っています。

授業風景授業風景







 これも6年生。総合的な学習の時間。PCでネット検索中。

授業風景授業風景







体育館は、2年生と4年生でした。2年生は短縄跳び持久跳びに挑戦。

4年生は8の字跳びの練習です。1分間120ぐらいいくかも知れない。

授業風景授業風景








平成29年1月18日(水)

 3年生の書写の学習。大きなお手本をもとに、丁寧に書いています。

「書き初め」は先週で終わり、教科書を見ながら、机の上で姿勢良く書いていました。

授業風景授業風景







 

 6年生の教室に行ったら、新年会。このクラスは係活動が、「〇〇会社」。

各会社ごとに出し物がありました。図書の紹介。イラストクイズ。実験会社では

静電気の実験に参加させてくれました。仲間に入れてくれてありがとう!

授業風景授業風景







授業風景







授業風景









平成29年1月17日(火)

 1年生の教室でお店屋さんごっこが始まりました。「背が大きくなるスイカ」

「美人になるメロン10円」。楽しそうですが、しっかりと、めあてが設定されています。

授業風景授業風景授業風景







 2年生の算数の学習。児童のノート文字がきれいで、感心しました。

授業風景授業風景







 3年生の算数。感染症予防に、全員マスク着用です。徹底しています。

授業風景授業風景







 6年生の算数です。資料の整理のしかたの復習かな。

グループで楽しそうに学習しています。ここでも、ノートの文字の美しさに感心しました。









 

 

 

 

 

 5年生の家庭科の学習。家庭の収入、支出についてでしたが、児童の中から

「ローン」「保険料」が出てきて、現代の子ども達だなぁと思いました。

ここでも、ワークシートの文字の丁寧さに感心しました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


平成29年1月16日(月)

 寒い日になりました。でも、子ども達は各クラスで担任と元気に学習しています。

 1年生は国語の学習で、お店の人の言葉を考え、さらに、ロールプレイの品物を

作っていました。マグロ10円、安い!

 タコに至っては「タダ」!なんて良心的なんでしょう。

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 2組は、算数で「十のまとまり」を、具体物を使って考えていました。

どの子も手があがります。意欲満点!

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 校庭ではボール投げの後期の記録を取っています。追い風で良い記録になれば

いいなぁ。よく見ると、ゴム紐を張って、高さを出すような工夫もあります。

授業風景







 2年生の国語。しっかり友だちに聞こえるような発表。

ノートの文字がとてもきれいで思わずパチリ。

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 5年生の割合の学習。公式から導き出すだけでなく、図解して、10%の量を考え、

20%の量を求めていました。仕組みが分かっているからこその解決です。

嬉しくなりました。

授業風景














平成29年1月13日(金)

 1年生の図工。友だちと協力し合って、転がる仕組みを作っています。

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 2年生も図工でした。担任の具体的な説明を子ども達が集中して聞いています。

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 3年生は、国語で「詩」の学習をしていました。声を出して読む活動で、とても大切です。

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 隣のクラスは、算数。個別に、担任と補助員で協力し合い指導中です。フリージアが香っています。








6年生はどちらのクラスも学習のまとめを行っていました。

授業風景








平成29年1月12日(木)

  2年生の入り口の廊下には九九表が。今回は8の段ですね。大型ディスプレイも大活躍。

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 3年生が育てているフリージアが、きれいに咲いています。高舘さん、ありがとうございました。

授業風景








5年生の算数「割合」の授業に乱入し、考え方をちょっとアドバイス。

「何倍」の考え方と同じなんです。「~を1とする」よりも「ひとつ分は~」の方が理解しやすい

授業風景








 低学年の廊下に、絵日記が掲示されていました。充実した冬休みを感じます。

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授業風景








平成29年1月11日(水)

 5年生の跳び箱の授業。寒い日なので十分にウォーミングアップして、ジャンプの基本

腰の位置を高くする運動に取りかかっていました。

教室風景教室風景








 2年生の算数の授業。千より大きな数について、子どもたちの自力解決を、その場で、

大型ディスプレイに飛ばして共有化を図っていました。

教室風景教室風景








平成29年1月10日(火)

 だいぶ更新を怠っておりました。新年にあたり、更新頻度を高めていこうと考えています。

 始業式の日の教室の様子。担任それぞれの思いが黒板に書かれています。

 子どもたちの学習の様子も、姿勢や、真剣に考える姿に、3学期への意欲が感じられます。

教室風景教室風景







教室風景教室風景

 




 

 

教室風景教室風景

 




 



平成28年12月15日(木)

6年生の租税教室でした。税務署の署員さんが来校し、ビデオで学んだり、1億円の模型をもってみたり。

「もし税金がなかったら」道路も病院も有料です。印象的な学習になりました。

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平成28年9月27日(火)

1年生の算数です。量の測定の基礎の指導です。ペットボトルやマスを用意し、具体的に指導しています。

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6年生の算数で作図に取り組んでいました。友達同士教え合って楽しそうに学習しています。

また、おおぞら学級では、図工の学習でした。丁寧に一生懸命取り組んでいます。

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平成28年9月23日(金)

年生の図工の授業。学習のめあてがきちんと明示されています。資料も多用し、子ども達が安心して自分の

作品作りに取り組んでいます。

図工図工










平成28年9月20日(火)

 1年生と、2年生の国語の授業。挿絵や、板書を工夫して、分かりやすく指導してくれています。子ども達も意欲的で立派です!

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 こちらは4年生の授業。教科書をきちんと両手で持ち、音読をしています。高学年らしく立派な姿勢で感心します。

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平成28年7月13日(水)

 3年2組で、教頭先生が書写を指導しています。文字の形を1画1画押さえながら、考えさせ、気がつくことの発表を促しています。「よく見て」だけでなく、「何をどのように見るのか」視点をしっかり押さえて指導してくれています。

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 こちらも3年2組、図書室で図鑑を用いて調べ学習に取り組んでいます。とても静かに調べています。興味をもったものに集中している様子です。

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 3年1組は、図工の作品の発表会です。鑑賞の授業です。作品の意図と、その意図にそってどう工夫したのか、担任が発言を促しながら、発表していました。聞く態度もとても静かです。

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 4年2組は理科で夏の生き物について話し合っていました。知っていること、気がついたことを進んで発表できています。

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平成28年6月20日(月)

 6年2組で研究授業のプレ授業を行いました。国語の「パンフレットを作ろう」です。授業の序段で教師の発問に全員が挙手。自信をもって発表していました。

 その後、グループでブレインストーミングや座標ツールを使い、自分たちの考えを視覚化しパンフレットの構想をまとめていました。どのグループも熱心に落ち着いて話し合いができていて、来週の1組での授業が楽しみです。落ち着いた学級に育ててくれていて、担任に感謝です。

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 1年生の教室にゲストドッグ・リッキー君が来ました。とってもおとなしい性格で、吠えもしないし、触られっぱなし。大きなフラットコーデットレトリバーで子どもたちは大喜びでした。ちょっと苦手なお友達もおそるおそる手を出していました。動物とふれあうとても貴重な体験ができました。

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 2年3組は漢字の学習。拡大コピー機を活用して、教科書のページを拡大して学習しています。2年2組はスイミーのまとめで感想をまとめていました。ノートの文字がとってもきれいで感心します。2年1組は初任者への生活科の示範授業。自分たちが育てている野菜の収穫の時期を図書から調べています。

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平成28年5月16日(月)

 今日の5時間目は多くのクラスで小グループでの話し合いが行われていました。1年生でもクラスの目当てを自分たちで話し合っていました。2年生は音楽で3拍子のリズムうちを隣同士で行っていました。5年生も学級会で、小グループでの話し合いの時間をとっていました。4年生は「国語」の中の教材で話し合いを取り上げ学んでいました。

 学習の形態を一斉型だけにとらわれず、友達と関わり合いながら学ぶことで「学び合い」の下地になっていきます。今年度の学校課題解決に向けて意識的な取り組みになってきています。

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平成28年5月13日(木)

1年生の下校時

 下校する前に、アサガオの鉢に水をやっています。きっと担任が働きかけたのでしょう。こうやって「生命」の大切さを気づかせ、命を守る意識を育ててくれているのだと思います。

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6年生の国語

学び合いの学習が軌道に乗るように、指導してくれています。小グループでの話し合いの仕方に慣れてきているようです。友達の意見をちゃんと聞ける様子に感心しました。

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2年生の体育

 きちんと整列して、規律を守って準備体操をしている姿に感心しました。担任の働きかけがあってこそです。

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1年生の図工

 自分の思いを表現できるよう、担任が言葉かけを工夫しながら働きかけてくれていました。

「校長先生!見て、見て!」と粘土のお寿司や、かごを見せてくれる姿がうれしそうです。担任も楽しそうです。

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平成28年 5月11日(水)

 1年担任がタブレットとプロジェクターを使って算数の授業をしています。

 プロジェクターを使うことで児童の意識を集中させることができます。

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 3年生が、2クラス合同で、「安全マップ」づくりに取り組んでいます。

 広い多目的教室を活用して、児童自身の安全意識を高めてくれています。

 交通事故、不審者など身近な危険に気づく目を養ってくれることと思います。

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 5年生のバレーボール型ゲームの授業です。

 練習方法を工夫して、どれだけ円形ラリーが続くかを競いながら、

 グループでの話し合いや思考力を高めながら指導してくれています。

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 6年生の算数の授業。円の面積の求め方を具体物を操作して

 考えさせています。単に公式を教えてしまわず、面積の概念を

 復習しながら、具体的に考えさせてくれています。

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作成日:2012年10月24日
更新日:2017年10月19日

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